デイトナ スピードウェイへのトンネル

世界を走った冒険野郎

世界一周(ヤマハYDSⅢ) 一三六、〇〇〇キロ

—モーターサイクル冒険旅行の世界最長記録樹立—

吉田 滋

昭和四十四年(一九六九年)発表

デイトナ スピードウェイへのトンネル
デイトナ スピードウェイへのトンネル
YDS3による世界一周ルート
YDS3による世界一周ルート

ヤマハ発動機技報No.42 「二輪車による2度の世界一周への挑戦」 より転載)


目次


第一章 出発までの準備

三年かかった周到な準備

 私が外国へ出て見たいという夢を持ったのは、高校三年の頃からだった。大学受験の準備もせずに海外移住を志して、南米移住事業団に足を運んだこともたびたびだった。
 しかしながらその手続きの複雑なこと。費用など、十八歳の私には重荷過ぎて、あきらめざるをえなかった。
 大学へはいると同時に長期的な計画を立てた。働きながら出来るだけ多くの国々を見てこよう。世界を見てくるにはそれだけの価値があるのだ。そう思った。私がなぜモーターサイクルで千日間も走り回ったかは次の三つの要因につきる。
 一、この世に生まれたからには世界という、とてつもなく大きな自然を見なければ損である。
 二、現在の日本を知る人はまだまだ限られた人々であり、各国の田舎を回って出来るだけ多くの若者と接し、少しでも多くの人に日本人という人間を知ってもらう。
 三、世界一のモーターサイクル生産国日本のモーターサイクルが、世界のいかなる悪条件にも耐えうるかどうかを試す。

体力養成とあくまでやりぬくという心構え

 在学中から着々と準備にとりかかった。三年間にかけた準備はたった二つのことだった。これは旅に出るか出ないかを分ける大きなポイントになるので、三年間をかける価値は十分あった。
 ひとつは体力育成であり、ひとつはあくまでもやるという心構えを自分に植えつけることだった。
 体力育成にはまず勉学はさておき、四年間ラグビーに専念した。もしアマゾンで、サハラ砂漠で、病気にでもなったら、一人旅ではどうしようもなくなるからだ。
 あくまでもやるという心構えを自分に植えつけると書いたが、これは非常にむずかしいことである。私の場合、自然にわいて出て心に焼きついたといった方がよいだろう。
 他の物は何もいらない心構えさえあれば、どんなことがあっても飛び出せる。

日本一周、ヤマハYDⅡで予行演習

 大学二年の夏休み二ヵ月間を利用して、ヤマハYDⅡで、日本一周、一万六百六十二キロの予行演習を行なった。
 ガタガタのYDⅡを買い入れ、ユースホステルに泊まりながら、北海道、本州、九州、四国と、日本のすみずみを走り回った。
 このとき、モーターサイクルほど機動性のある物は他にはないと痛感した。モーターサイクルに乗れる最低年齢で許可証を取ってから、ポンコツモーターサイクルを乗り回し、いじりまわしているうち、モーターサイクルのとりこになってしまった。
 モーターサイクルといっしょにいれば、あとはどうでもよいというほど熱狂的だった。

具体的な計画

 考えられるあらゆる手は打った

 大学四年にはいってから卒論の合い間を見て世界一周のコース、用意する物を綿密に準備し始めた。世界各国の気候、道路状況、手続きの調査のため、旅行記をかたっぱしから読み、理科辞典を買い入れ、旅行記を書いた人に会い、NHKの特別報導班の人にも会った。各国の大使館を歩いて細かに地図および手続きについて情報を収集した。
 コースについては何回となくねり直し、出来る限り海を渡る回数を少なく、距離を短かくと心がけたが、やはり太平洋、大西洋など陸よりも広い海は、計画上一番気を使った。
 陸に関しても雨季はさけるようにした。雨季にはいると通行不可能となる道路は中南米、アフリカには相当ある。
 モーターサイクルにしても一台あれば、走り切れるというのではなく、消耗品を厳選していかにして運ぶか、クランクシャフトが折れた時は、その時はまた天にまかせるとして、何万キロ走れば使用不能になるとわかっている部品は、持って行かないわけにはいかないのだ。

行動開始

熱意で体当たり、ヤマハの借用に成功

 四年の終わり、卒業式も近づいたころに実際に行動を開始した。出発までの約五カ月という間、一人でただただほんそうしまわった。つらい期間であった。
 船については、在学中から先生方に計画を話してあり、船のこともお願いはしてあった。私の専攻の主任教授である岡本教授がカナダまでの船を見つけて下さったのは三月初めだった。次に私の旅に最も重要なモーターサイクルである。昭和四十年といえば、海外に自動車、モーターサイクルで出ることもめずらしくなくなり、各自動車、モーターサイクルのメーカーは片っぱしから私のような者への協力をすでに拒んでいた。
 私は綿密な計画書を同封して、ヤマハ発動機の川上源一社長あて提出した。その内容は会社の広告をしようとか、ヤマハモーターサイクルの優秀な点を宣伝しようとかといった内容ではない。ただ私は、切実に自分のやろうという計画にはモーターサイクルが無くてはならぬことを訴えた。
 一週間後に返事が来た。私の気持ちが通じたのだ。その返事が来て、すぐに浜松の川上社長のもとへ飛んで行き、さらにくわしい計画を話した後、モーターサイクル一台を貸してもらうこと、部品関係のめんどうを見てもらうことを約束した。このとき以来、出発、旅行中にいろいろとヤマハ発動機の世話になったが、川上社長に対しては、海の物とも山の物ともわからない私に協力の糸口を作ってくださったことに深く感謝している。

資金集め、足を棒にして歩き回る

 船とモーターサイクルが決まったいきおいで、私はさらに資金を集めるため、七十社ほどの名の知れた会社社長あてに計画書を送った。目標額一万ドル(三百六十万円)。計画書を送った後、一日少ない日で五社、多い日で十社ほど歩き回って社長とらかだんぱんである。たいてい秘書課で追いはらわれるのが落ちだが、何度でも社長に会わせてくれとかよった。十回行ってけっきょく断わられるということもあるのだが、根気よく歩きまわった。
 集まった金は目標額の十分の一、約千ドルだが落胆はしなかった。一文無しでも日本を出してくれるなら行きたい私にとって、モーターサイクルがあり、千ドルがあれば、あとはパスポートと入国ビザさえあれば、喜んで飛び出して行くのだ。

世界一周旅行の必需品

 モーターサイクルは耐久試験をかねて、スタンダードのままとした。世界中を走れば必然的にすべての気候、道路状況下を走ることになる。試験を行なうには最も適した条件であり、あえてスタンダードのモーターサイクルとした。
 さて持ち物についてだが、その量は膨大になった。家財道具一式といった方がよい位い多くの物を持っていた。ちょっと必要な物でも旅へ出てから買うことはつらいことである。モーターサイクルにつめる物は出来るだけ持って行った。
①書類
(イ)パスポート
(ロ)カルネ
(ハ)国際運転免許書
(ニ)登録証書
(ホ)イエローカード
(ヘ)JAF会員証
(ト)ユースホステル会員証
(チ)YMCA会員証
(リ)金
(ヌ)トラベラーズチェック
②モーターサイクル用品
(イ)ヘルメット
(ロ)半長靴
(ハ)皮ジャンパー
(ニ)皮ズボン
(ホ)上下雨具
(ヘ)手袋
(ト)ゴーグル
(チ)マスク
(リ)スペアパーツ(別表)
③テント類
(イ)テント及び付属品一式
(ロ)シート
(ハ)寝袋
④自炊道具
(イ)ガソリンラジュース
(ロ)フライパン
(ハ)飯盒
(ニ)深皿
(ホ)ナイフ、スプーン、フォーク
⑤筆記道具
(イ)便せん
(ロ)封筒
(ハ)万年筆
(ニ)鉛筆
(ホ)ケシゴム
(ヘ)ナイフ
(ト)ものさし
(チ)インク
⑥薬品
(イ)アスピリン
(ロ)マラリア特効薬
(ハ)ヘビの血清
(ニ)水の消毒薬
(ホ)ホウタイ
(ヘ)バンソウコウ
(ト)ビタミン剤
(チ)下痢止め
(リ)消化剤
(ヌ)抗生物質
(ル)メンソレ
(オ)キンカン
(ワ)セイロ丸
(カ)赤チン
(ヨ)二酸化マンガン
⑦衣類
(イ)パンツ
(ロ)シャツ(夏、冬)
(ハ)クツ下
(ニ)ジーパン
(ホ)ズボン
(ヘ)黒背広上下
(ト)ネクタイ
(チ)Yシャツ
(リ)カフス
(ヌ)タオル
(ル)セーター
(オ)エリマキ
(ワ)海水パンツ
(カ)シーツ
(ヨ)裁縫道具
⑧本類
(イ)辞書(和―英、英―和、英―スペイン語、英―ポルトガル語、英―フランス語、和―独)
(ロ)会話の本(和―スペイン語、和―ポルトガル語、和―独語)
(ハ)愛読書
(ニ)モーターサイクルマニュアル
(ホ)モーターサイクルパーツリスト
(ヘ)データ類
(ト)日記帳
(チ)モーターサイクル雑誌
(リ)住所録
(ヌ)サイン帳
(ル)紹介状
(オ)折り紙の本
(ワ)折り紙
⑨備品
(イ)カメラ
(ロ)時計
(ハ)フィルム
(ニ)ライター
(ホ)カガミ
(ヘ)クシ
(ト)ヒゲソリ
(チ)歯ブラシ
(リ)釣り道具
(ヌ)カラースライド(四百枚日本製)
(ル)コイン
(オ)接着剤
 ほかに別表部品工具類を特製のステンレスボックスとサイドバッグ二つ、ザック二つ、ツーリングバッグにおさめた。全荷重は七十キロあった。

携行パーツ

部品名数量
ピストン2
ピストンリング(Top, 2nd)各2
ピストンピン2
スモールエンドベアリング2
プラグ(6H, 7H, 7HZ, 8HC)各4
ドライブスプロケット(15, 16, 17T)各1
チェンジペタル1
エアークリーナーエレメント1
エキパイガスケット2
ジョイントガスケット2
ポンプ Assy1
フートレストアーム(L・R)各1
フートレストボルト2
フートレストラバー2
リヤーアームブッシュA2
リヤーアームブッシュB2
ブレーキシュー2台分
ブレーキスプリング8
ブレーキワイヤー(リヤー)1
ブレーキペダル1
ブレーキワイヤー(フロント)1
チューブ2
チェーン(525)1
ハンドルレバー Assy(L・R)各1
ハンドルレバー(L・R)各1
ヘッドライト(球)シールドビーム2
テールライトバルブ2
テールライトレンズ2
フラッシャーバルブ2
フラッシャーレンズ4
タコメーターケーブル1
スピードメーターケーブル1
点火コイル1
レギュレーター1
ブラシ4
コンタクトブレーカー2
ストップスイッチ1
クラッチワイヤー1
アクセルワイヤーA1
アクセルワイヤーB2
ポンプワイヤー1
シリンダーパッキン10
ケースカバーパッキン4
ヘッドガスケット6
ピン30
メインジェット
    S.T.D # 1202
       #1102
       #1002

携行工具

工具名数量
スパーナー 9 × 101
スパーナー(モンキー)大1
スパーナー(モンキー)小1
ノーズプライヤー1
ドライバー +大1
スチールハンマー1
ソフトハンマー1
アマチュア抜きボルト(三菱製)2
クランクケース分解工具本体1
クランクケース分解工具ボルト(長)2
クランクケース分解工具ボルト2
クランク嵌入工具本体1
クランク嵌入工具ボルト1
リングナット着脱工具1
ダイヤルゲージ1
ゲージ台1
オイル差し1
サンドペーパー1
ヤマハボンド(小)1
フォーク着脱1
タイヤレバー2
タイヤゲージ1
パンク修理一式1

第二章 北米編

旅行期間=一九六五年七月二十九日〜六六年三月二十三日
総走行キロ=三二四四五キロ(三千キロのならし含む)

和歌山―アメリカ大陸、一万五千円也

船賃を浮かすため船員として渡航

 一九六五年七月十二日、私は和歌山港からヤマハYDS-Ⅲとともに、イースタン・サクラ号にいよいよ乗り込んだ。会社関係を歩き回って三ヵ月、手続きにも大部手間どった。しかしながら、やっとここまでもってくることができた。これから二年八カ月、一人ぽっちのモーターサイクル世界一周旅行が始まるのだ。特に緊張するわけでもなかったが、私に期待をかけ、援助をしてくださった人々に対して、責任感のような静かな闘志がわいていた。
 この船は、一万五千トンの香港所有の貨物船で、船長以下四人の英国人、第二航海士以下四十名ほどの中国人、通信士のインド人、それにニューフェースの日本人一人、すなわち私の五十人近い乗組員がいた。私は船賃を安くするために、船員の資格として乗船させてもらったのだ。結局船員の仕事はしない。ただし食費代だけ払うということで、モーターサイクル込みで日本からカナダまで、たったの一万五千円の船賃だった。しかも船室は船長と同じデッキで、日本間にして六畳位いの、小じんまりした設備のととのった部屋だった。あとから考えるとこれが三年近い旅行の中で、一番豪華な船旅だった。しかし大きな落とし穴も待っていた。神ならぬ身だけに知る由もなかったが…。

しばしの別れ! 愛車YDS-Ⅲを船積み―右端は著者
しばしの別れ! 愛車YDS-Ⅲを船積み―右端は著者

船員の資格! カナダで入国拒否

 約二週間の船旅の後、七月二十四日、船はカナダのバンクーバーに到着した。港には、自家用のモーターボートが走りまわり、五台の水上飛行機が飛びまわっていた。日本ではめったに見られない大きなキャビン型のボートが、風を切って白いしぶきを思いきりあげて、気持ちよさそうに走っていた。港の中に水上のガソリンスタンドが数軒ならんでいた。これはモーターボート、水上飛行機用のスタンドだという。持てる国だなと感心した。
 入国の手続きは万全を期してきたつもりだったが、早速カナダの移民官にイチャモンをつけられてしまった。私が船賃を安くするために、名目上船員として船に乗っていたことがひっかかったのだ。カナダでは、船員の入国は許可していない。たとえ、パスポートを持っていても上陸はできないというのだ。私がこの船に乗っているただ一人の日本人で、これからモーターサイクルで世界一周をしようと計画している青年であって、船員でないということはわかりすぎるくらいわかっていることなのである。しかし規則だから仕方ないというのだ。せっかくここまできて、上陸できないとは残念どころではない。私は船の所有会社であるT船会社に電報を打ち、何とかカナダ入国を可能にしようとしたが、“船員”という資格を抹消することはできなかった。
 だが、私はとても幸運であった。もしイースタン・サクラ号が、日本に直行する船であったら、私はそのまま日本にもどらされ、旅のふりだしに舞い戻ることになったであろう。幸いなことにイースタン・サクラ号は、鉄材をバンクーバーでおろした後、アメリカのポートアンジェルス港で材木を積み込んでから、日本へ向かうのだった。そのポートアンジェルスで上陸する機会がまだあった。アメリカはビザをとっているし問題なく入国できるだろうという。移民官はさらに、こうつけ加えた。「カナダに入国したいなら、アメリカのポートアンジェルスで上陸して、それから陸路でカナダにはいれますよ」と。最終的にカナダにはいれるのなら、いま上陸させてくれてもよいのに――と思うのだが、規則がそうさせないらしい。
 その場に出会わさないとわからない手続きの問題には、これからの旅に、何度となく悩まされるのだということを、最初の上陸問題で痛いほど思いしらされた。

世界冒険旅行の開始

アメリカではスムーズに入国できる

 七月二十九日、アメリカのポートアンジェルス港に到着、まず移民官がパスポート、予防接種の有無を調べたのち、六カ月間の滞在許可をすぐくれた。ここでは船員の資格について何とも文句をいってこない。税関のほうは、荷物を簡単に見ただけで、モーターサイクル、工具、部品類には目も通さず、すべてOK。ただし薬品類だけは、綿密に調べていたが、別に麻薬を持っているわけでもないし、問題はなかった。税関にとって、私の持っている七十キロの荷物は、何も金目のものはないし、つまらぬ荷物ばかりのようにみえたのであろう。しかし、この七十キロの荷物こそ、これから私が、三年間にわたり自炊をしながら、そしてあるときは、野宿をしながら、世界の六十カ国をまわるのに、どれもなくてはならぬ大切な選びぬいた品物なのだ。
 中国人の船員たちの手によって、モーターサイクルがポートアンジェルスの港におろされた瞬間から、北米の旅は始まった。私の旅は、私一人が上陸しても始まらないのである。私の相棒であり、片腕ともいえるモーターサイクルが無事上陸して、はじめて旅が開始するのだ。この相棒のモーターサイクルには、人間の私以上に上陸の際手間がかかった。船を離れたのは四時三十分、道路は日本とは反対の右側通行だが、二週間以上もモーターサイクルに乗っていなかったので、かえって馴れやすかった。どこを見ても外車だらけ。外国へ来て外車を見るのは当たり前だが、初めのうちはそれさえ珍しい。オリンピック国立公園へは細い急な登りを行く。決していい道路ではない。横文字の道路標識を横目で見ながらキャンプ村へと行く。アメリカ、カナダには国立公園内の公営キャンプ村から民営のキャンプ村まで、いたるところに自動車旅行者用のためのキャンプ村が設置されている。
 一般に公営のほうが設備がよく安い。このキャンプ村は五十セントだったが、場所によっては金を取らないし、高いところで一ドル五十セント止まりだった。家族連れのトレーラーから寝袋一つの青空組まで、利用する人は種々様々で大きなこのキャンプ村も満員の盛況だった。

愛車に跨る旅行者―ポートアンジェルスのキャンプ村にて
愛車に跨る旅行者―ポートアンジェルスのキャンプ村にて

骨折事故

道路のまんなかを堂々と走れるモーターサイクル

 バンクーバーの後ろの山々は、岩がゴツゴツしていて、頂上には夏だというのに雪がまだあった。海岸線も切り立った岩ばかりである。青い海と空、白い雪、針葉樹の木々、それらが調和して美しい。遠くから見たとき、日本の初春の屋久島を思い出した。
 バンクーバーは、カナダ西部で一番大きな町で、木材をはじめとした第一次資源の代表的な輸出港である。港内には絶えず十隻近くの貨物船が停泊していた。
 町の中の道路は四車線だが、ラッシュ時には、やはり相当混雑していた。右折の際、赤でも左側から直進可能なのは、カナダだけのものらしい。車と別に、歩行者の信号が独立していて、車の信号よりずっと早く赤になる。またある交差点では、四カ所ある車の信号が全部赤になり、一方、歩行者の信号は全部青になり、歩行者は道を斜めにも横断することが可能になる場所があった。運転手は紳士的で、歩行車に道をゆずる場面があちこちで見られた。
 モーターサイクルは、どこへ行っても欧州製を押さえて、日本製が圧倒的に多い。モーターサイクルだから、はじっこを通れという法律はないから、道の真ん中を堂々と走っている。

バンクーバー出発

 八月四日、バンクーバーを出発、冷たい雨の中をカムループスへ向かった。四車線のハイウェーで中間には道幅と同じぐらいのグリーンベルトがあり、両側にもそれと同程度の道幅の余裕がとられている。制限速度は七十マイル(一一〇キロ)、雨で見通しが悪いので六十マイル(九十六キロ)で進む。ロゼデールまで一二〇キロほどあり、そこから一車線になり、山へはいって行った。トランスカナダの道は、急な登りのところだけ登り側が二車線になっていた。大型トラックのような、登りで速度の落ちる車は、右側を走るようになっているので、道路が渋滞しない。日本では見られない方法で、素晴らしいと思った。
 登っては下り、登っては下りしていく道が続いていた。雨は相変わらず降り続いていた。しかしメーターは依然六十マイルをさしている。道路が一車線だから、他の車の速度より遅くするとかえって危いからだ。ホープの町を過ぎ、道路はフレイザー川に沿って走っていた。針葉樹に包まれた山々が雨にボーッとかすんでいる。前にトレーラー車が走っていた。一〇〇キロでその車に続いていた。こんな一本道で、まさか前の車が急ブレーキなんかをかけたりしないだろうと思う一方、その危険性を感じながら走っていた。

前のトレーラーが急ブレーキ! 右足首骨折と関節剝離

 ところが、視界の悪い場所で、突然前のトレーラーが急ブレーキをかけた。こちらもすぐブレーキをかけたが、しかし全然きかない。スリップしてしまい摩擦力ゼロだ。七十キロ近い荷物を積み、一〇〇キロのスピード、そして道路状態が悪いときたから、あけておいた二十メートルの車間距離もまったく役に立たないのだ。目の前にすぐトレーラーがせまってきた。このままではもろにぶつかってしまう!
 一瞬の判断でブレーキを軽く離し、中心線に近づいて外にでようとした。しかしだめだ――前から対向車がくる。もうどうしようもなかった。やむなく私はハンドルをもとにもどし、ブレーキをかけた。ブレーキをかけたとたん、私はいやというほどモーターサイクルとともに道路にたたきつけられた。中央線の右側に沿って、そのまま二十メートルから三十メートル滑ったであろうか。右足に猛烈な痛みを感じたが、モーターサイクルはなかなかとまらない。滑りながらモーターサイクルとからだがまわった。周囲の風景がゆっくりとまわるのがわかった。
 モーターサイクルがやっと止まった。幸運にも止まった目の前に、パトカーが駐車していた。私は一人で起きあがろうとしたが、モーターサイクルの重みで身動きがとれなかった。パトカーから図体の大きい警察官が、すっとんできてくれた。痛みをこらえて彼が持ち上げてくれるのを待つが、一人では持ち上げられない。パトカーからもう一人走ってきて、二人かかってやっと足をひきだしてくれた。二人目がくるまで、ほんの一秒か二秒位いだったろうが、しかしその時間の長かったこと――。
 足首を見ると、何と普通の方向の九十度外側に向いていた。
 「こいつ、俺の足なのに態度悪いぞ!」と心の中でどなって、自分で両手に相当な力をいれて、正常な方向に強引にもどした。大学時代、ラグビーをやっていたため、ケガに慣れていたことが、私をかなり落ち着かせてくれていたようだった。
 救急車で病院に運ばれ、レントゲンで調べたところ、右足骨折と、右足首の関節が離れているということだった。病院の入院費は、一日十九ドル七十五セント(約四千八百円)とべらぼうに高く、私の長くいられるようなところではなかった。

忘れられない浅野さんのご好意

 ところが、私にとって大変ラッキーなことに、運ばれた病院に、浅野さんという日本人ドクターが働いておられた。浅野さんは、長い旅をひかえた私を見るに見かねて、八日間の入院のあと、家にひきとってくださった。カナダ人の奥さん、二人の子供さんとともにギプスを取るまでの四十日間を、家族の一員として暖かく迎えてくださった。おまけに浅野さんは、手術費の二百三十ドルを、カナダ人のドクターにわけを話して、百五十ドルにしてもらってくれた。私のチョッとした不注意のために、何と入院費百五十八ドルと手術費百五十ドル、計三百八ドル(約十一万円)という大きな出費をこうむってしまった。しかも、もし浅野さんがおられなかったら、到底これだけではすまなかったろう。三百八ドル、治療日数五十三日間はいたかったが、このけがは、以後の長い旅に対して貴重な忠告となった。
 雪のこないうちにと、ビッコの足を引きずって九月二十六日ホープの町を後にして、ロッキーを越えて大陸横断に出発した。寒い十月の雪にもあいウイニペッグ、モントリオールと通過してケベックにはいったのは十月二十一日。そこからアメリカ合衆国へと下った。

はてしなく広がる雲海に旅愁を感じる
はてしなく広がる雲海に旅愁を感じる

つらい雨のテント

寝袋までびしょ濡れ

 十月も末になると、どのキャンプ村も冬眠にはいってしまい、どこも泊まれなくなる。ただ道路わきのところどころにピクニック・エリアという、車の旅行者が昼食をとったり休憩するのに使う場所があり、“テント禁止”と書いていなければ、そこにキャンプしても構わないのだ。
 ザ・フォークスの近くで、大きな湖のわきにあるピクニック・エリアを見つけた。早速テントを張って寝たが、夜中から強い雨が降ってきた。木のぜんぜんないところにテントを張ったので、もろに雨が吹きつけてくる。下は湖のわきなため水はけが悪い。じりじりと下から水がはいってきた。上からはもうないのに、下からシートにしみ込んで、次第に寝袋にまで侵入してきた。今さらどうこうすることもない。無駄なエネルギーの消耗はやめよう。
 エイ、寝てしまえ!と自分にいい聞かせて、そのまま朝まで寝てしまった。外が明るくなって目がさめたものの、雨はなおも止んでいない。モーターサイクルに乗っているときは、雪が降ろうが雨が降ろうがたいしたことはないのだが、テントを張ったとき、雨が夜中に降りだして、朝になってもやまないのが、一番こたえる。このときも、からだがビショビショのまま、上に皮ズボンと皮ジャンパーを着た。せまいテントの中ではこれが一仕事だ。だいいち、すわっていてテントに頭がついてしまうから、ズボンをはくときは、片手で体重をささえて片足をいれる。それを二回くり返すのだ。皮ジャンパー、皮ズボンを身につけると、次に雨の中をもくもくとテントをたたみ、寝袋をたたんだ。たたみ終えたときは、皮ジャンパー、皮ズボンはもうグショヌレになっていた。普段より、水をしみているため重い。重い足をひきずって、荷物をモーターサイクルに積み雨の中を出発した。

車の町、デトロイト

モーターサイクル・クラブ訪問

 デトロイトにはいったのは十月二十八日、やたらと自動車が多い。よく目につくのがムスタングだ。日本では輸入外車の中でも少ないほうだが、本場では非常に多い。最近ポンティアックを抜いて年間四十万台を超えたという。町中の車の多さは、日本からきた私が、デトロイトで生産した車がみなこの町で走っているのではないかと思うくらいだ。道も今まで訪ねたどの町よりも一番立体交差がよく整い、舗装もきれいだった。
 自動車工場は、フォードのエンジン組み立て、ムスタングの組み立てライン、ジェネラル・モーターのコルベア組み立てライン、クライスラーのインペリアル・クライスラー・プリムス、ダッヂの組み立てラインを見学したが、決してよいところは見せてくれない。おきまりの組み立てラインがほとんどで、フォードがわずかにエンジンの組み立てを見せてくれたぐらいのものだ。部品加工の現場はまず見せてくれなかった。自動車会社を見学して、女子と黒人労働者の多いのが目についた。
 デトロイトには二十三のモーターサイクルクラブがある。その中で一番大きなリバティー・モーターサイクルクラブに招待された。カナダのカルガリーでも、クラブを訪れたが、そこと同様、きれいなクラブハウスをもっていた。私の訪れた日は、このクラブの会員だけでなく、他のクラブの人も呼ばれ五十人ほど集まっていた。女性も六人いたが、彼女らも立派なモーターサイクルライダーなのである。金持ちクラブだけあって、ハーレーに乗った者が多かった。彼らは日本製のモーターサイクルをあまり知らないようで、一緒にしばらく走ったとき、私のヤマハの出足のよさには舌を巻いていた。
 会で私の旅行の経過、これからの予定を話した後、クラブ員から、モーターサイクルに関すること、また日本の一般的な生活状態についていろいろ質問をうけた。会が終わってから二人の女性が近づいてきて、「私達二人は、それぞれBMWの二五〇㏄を持っているから一緒に連れていってくれないか」といってきた。
 予期してなかった頼みなので、ちょっととまどったが、はっきりと、毎日モーターサイクルに乗って、あるときは雪の中を走り、あるときは石ころのごろごろしているところに寝袋一つで寝て、ときには冷たい雨でビショビショになって進むことは、女性にとって耐えがたいことだと説明した。さらに中米以後はもっとつらいことがあるだろうと、諦めさせるのに懸命の努力をした。心の奥では、諦めさせる必要なんかないのではないかと思わないわけではなかったが――。決して旅行は辛いばかりではなく、楽しいことも多いのだが、この場合はそういわざるを得なかった。

デトロイトで訪れたリバティーモーターサイクルクラブ
デトロイトで訪れたリバティーモーターサイクルクラブ

真夜中のツーリング

フロリダのキーウェストからタンパまで

 一九六六年一月には、すでにフロリダにさしかかっていた。一月二十一日、フロリダのキーウェストからタンパまでの六百五十キロを、真夜中に走ってみた。フロリダといえば、冬でも寒くないところなので、以前から一度、真夜中のツーリングをためしてみたいと思っていた私には絶好の機会であった。
 午前零時にキーウェストを出発、島から島をつなぐ橋をいくつも渡って、フロリダ半島の南端に行った。この間、一番長い橋は十一キロメートルにおよび、左側にメキシコ湾、右側に大西洋がある。NO1をマイアミまで北上し、エバーグレイズの真平らな道を進んでいった。一〇〇マイルほど(東京――沼津・静岡位いの距離)町らしい町はなく、インディアン部落が数ヵ所、旅行者用らしいモーテルガソリンスタンドが数カ所あるだけだった。途中、自動車に四台あっただけ。モーターサイクルのヘッドライトの照らすアスファルトと、自分の目と白いアスファルトの間に黒く見えるバックミラーが左右に一つずつ、それだけの世界だった。
 夜中なので、ガソリンの入手を心配したが、うまい具合いに切れる少し前に、二十四時間営業のガソリンスタンドに出会った。切れたら切れたところで、テントを張るつもりだった。
 翌朝八時、六百四十五キロ走ってタンパに到着した。真夜中のツーリングは、その日霧が深かったせいもあるが、視界が悪く、神経が昼間よりかなりつかれてしまった。明け方は眠くなり、うとうとしてはっとすることもたびたびあった。夜のツーリングは、これでだいたいわかり、危険なものと感じたので、以後好んでやるようなことはしなかった。

アメリカの交通事情

駐車違反は十五ドルの罰金

 周知のように、アメリカは、全土にわたって文句のないほど素晴らしい道路網がはりめぐらされている。日本にいるとき、映画、書籍等で知っていながらも、実際に走ってみるとその驚きは前にも増して大きくなる。
 ニューヨークはエンパイアステートビルをはじめとして、摩天楼が林立するマンハッタンが中心になる。マンハッタンとロングアイランド、リッチモンド、本土とを結ぶために、二十カ所に近い橋とトンネルがあり、ハイウェーもまたマンハッタンを中心に広がっている。
 ひとたびマンハッタンの町の中にはいると、交差点では信号のないところはほとんどない。交通も東京と同じように詰まりがちである。それに対して地下鉄、バスが実によく完備している。私のいった一九六六年の一月に地下鉄、バスのストがあったとき、あれだけ騒がれたことからみても、多くの利用者があることがわかる。ただ地下鉄のきたないのには閉口した。駐車は町の中では、午前八時から午後六時まで禁止になる。私は町の中を走って何回か一番にぎやかなブロードウェー、五番街に真っ昼間駐車したが、モーターサイクルでもあるし、見なれない国際ナンバーが付いているので、駐車違反の緑色の紙切れはもらわなかった。ただ一度町の中心から離れたウェストサイドに止めておいて、緑色の紙切れをもらってしまった。十五ドルの罰金である。

でたらめな歩行者の交通道徳

 小さなベスパに乗った駐車違反摘発専門の巡査が、自分の受け持ち範囲をねずみのようにちょろちょろ回っているのである。駐車場は沢山あるが、モーターサイクルはだめだと断わられる場合が多いし、あずかってもらえても自動車と同じ料金を取られてしまう。またニューヨーク市内の歩行者は交通道徳がまったくなっていない。赤でも信号を渡るし、横断歩道のないところも渡って、ところかまわずつばをはき捨てる。交通整理をするはずである警察官でさえ、みずから赤信号なのに渡っているのを見かけた。

西部テキサスの小さな町
西部テキサスの小さな町

アメリカ各都市の交通事情

 テキサスにオレンジという小さな町がある。一月三十日のことだったが、ニューオルリンズからNO10ハイウェーを西へ向かう途中、給油の際、あまりの寒さにスタンドのオフィスでコーヒーを飲んで寒さをしのいでいると、途中で私を見かけたのだろう、新聞記者がはいってきた。ありきたりの記事をとった後、彼は自分の町であるオレンジを案内してくれた。彼は今日は十五年ぶりの寒さで、明日はもっと冷えるだろうという。オレンジはテキサスで一番初めにできた町で、昔はオレンジを作っていたが、今はフロリダ、カリフォルニアにお株を奪われ、テキサスで産する石油の精製が主な産業になっていることを教えてくれた。アメリカの古いヨーロッパふうの小さな町は、幹線道路から離れ、旅行者が訪れることもまれなのだろう。実際に町中を案内してもらったが、ひっそりとして交通量が少なく、精製工場は町から離れたところにあり、町の感じは静かな住宅街という印象だった。
 ニューメキシコに、カールスバドという、これまた小さな町がある。カリの鉱山ができて作られた新興の町だが、ニューメキシコ、テキサスにわたってえんえんと続く半砂漠の中にポツンとある。鉱山は五つの大会社がはいっているが、その中の一つIMCCを見学した。
 町の中は、サンタフェへ行く道、エルパソへ行く道など四本の道が通り、道に沿ってモーテルが立ち並んでいる。鉱山関係者の住宅街、旅行者相手のモーテル等で、この町は非常な活況を呈していた。この町には長距離バスが他の町からやってくるのを除けば、バス、地下鉄、電車の便はまったくない。したがって町の人達は、自動車を使う以外動きはとれないのである。
 ロサンゼルスはどうであろうか。アメリカで最も道路の素晴らしい町である。下町を中心に、ハリウッド、サンフランシスコ、サンディエゴへ通じる道など、七本のフリーウェーが放射状に伸びている。住宅地から通勤先へ、住宅地から遊びに郊外へ、どこに行くにもこのフリーウェーを利用するのである。地下鉄はなく、バスの便も少ないこの町では、自動車がなければ生活ができないというのは、大げさではない。
 これだけ完備した道路も朝八時から九時、夕方五時から六時の通勤時間には、普段六十五マイル(時速一〇四キロ)で走れるはずのフリーウェーが詰まりぎみで、止まったり、のろのろ運転で進むといった具合いになる。高速道路を作るにもその道路に合った出入り口の大きさを作らないと、十分には生かしきれない。しかしロサンゼルスの場合は、もうその問題ではなく、自動車数の絶対数についてのもっと先の問題なのである。
 以上四つの都市の交通事情を書いてみたが、アメリカを回ってみて、都市の交通事情は大ざっぱにいって、四つにわけられるということができると思ったからである。
 一つは、ニューヨークのような古い大都市
 一つは、オレンジのような古い小都市
 一つは、ロサンゼルスのような新しい大都市
 最後の一つはカールスバドのような新しい小都市である。
 古い大都市では、自動車がなくても生活でき、かえってバス、電車、地下鉄を利用したほうが便利でさえある。一方新しい町、小さな町では、自動車は必需品で、なくてはならないものになっている。またこんなによい道路を持ちながら、大都市ではその交通対策に頭をかかえなければならないとは、驚くべき自動車の数である。
 都市間の道路は大きく東部と西部の二つにわけることができる。東部の緑に囲まれたゆるやかな上り下りの続く道、まわりには人家も点々とある。西部の乾燥地帯では、木がまったく無く、ただ乾燥に強い、見かけはふわふわとやわらかそうだが、実際はガリガリと堅い草がポツポツ生えているだけである。そんな中を、道がただ一本はしっているだけだ。
 町と町の間はまったく人家がなく、岩山を走っていると思っていたら、いつのまにか広い砂漠を走っているといった具合いである。両方の道路とも、我々日本人には見慣れぬ景色だから、決して見あきることはない。同じような景色の砂漠地帯でも微妙にその景色は変わっていった。

アメリカでの日本車の評判

モーターサイクルはレジャー用とスポーツ用に

 アメリカ北部にはいったのが十月下旬で、モーターサイクルを乗るには、シーズンオフになりかけていたせいか、モーターサイクルでハイウェーを走る姿は、ほとんど見られなかった。しかし南に下るにしたがって多くなり、ロサンゼルスでは、その数は最高に達した。
 日本でも最近、モーターサイクルをレジャーとして使う割合が高くなってきたが、彼らは全部が全部、レジャー、スポーツに使用している。
五〇㏄―一二五㏄クラスには、ティーンエイジャーでも年の低いものが乗り、二五〇㏄以上になると、ハイティーンをはじめとし、上は五十歳を越えた老紳士まで、彼女や奥さんを後ろに乗せて、ちょっとした遠乗りをしている。

圧倒的に好評な日本製モーターサイクル

 またレースが多く、日曜日ごとに、ドラッグレースや、スピードレースが開かれている。モーターサイクルのファンならば、誰でもがレースに参加して楽しんでいるようだった。
 ロサンゼルスから一〇〇マイルほど山にはいったウィロースプリングで行なわれた、スピードレースを見に行った。山の斜面を巧みに利用した一周二・五マイルの面白いコースである。見物人はほとんどなく、レースに出場する者、その友達、家族だけである。まずレースの前にスターティングリフトを決めるレース(予選)があり、本番と同じくらい時間がかかった。
 クラスは、五〇㏄、一〇〇㏄、一二五㏄、一七五㏄、二五〇㏄、五〇〇㏄に分かれていて、全出場車七十七台のうち、五十六台が日本製であるヤマハ、ホンダ、スズキ、ブリヂストン、トーハツであり、三五〇㏄以下になると、なんと六十八台中五十六台もが日本製で占めていた。内訳をいうと、ヤマハ二十五台、ホンダ十七台、スズキ六台、トーハツ四台、ブリヂストンが一台であった。
 日本製以外のものは、一二五㏄でスペインのブルタゴ、デュカティ、二五〇㏄でデュカティとハーレーダビッドソン、三五〇㏄でデュカティ、五〇〇㏄でノートン、B・S・A、トライアンフ、ハーレーダビッドソンといったところであった。
 日本製モーターサイクルは、このようにレースにも多く使われており、成績も素晴らしい。このレースでも、三五〇㏄以下の優勝車は、まったく日本製の独壇場であった。ヤマハ、ホンダの名は知らない人がないほどだった。もう一度、ニューヨークの近くダウニングタウンで行なわれた、スピードレースとモトクロスの中間のようなレースを見に行ったが、やはり前のレースと同じく日本車の独壇場であった。

巨大なアメリカ市場

 自動車の場合を見ると、どうであろう。輸出が増えたとはいえ、ロサンゼルスを除けば、日本車を見るのはまれだった。それでもときたま、カナダやアメリカ東部で、ブルーバード、フェアレディ、ダットサントラックを見かけた。ロサンゼルス近辺では、ブルーバード、フェアレディが多く見られた。彼らはダットサンをダットサンスポーツと呼んでいた。アメリカ車にまじった、ブルーバード、フェアレディを見ていると、スバル、キャロルのような軽自動車並みの大きさに見えてしまう。図体の大きなアメリカ車にまじって敗けずに走っているのを見るときは、なんとなくうれしくなった。
 ジュージアのサヴァンナという町で、赤信号で止まっていると、隣にフェアレディが止まった。
そこで二言三言……。
 「どうですか、走り具合いは?」
 「実にいい車だよ! 君は世界一周をしているのかい? ヤマハだね。僕のはダットサンだよ。知ってるだろう?」ときた。
 日本人の僕が知っているのは、当然だろうと思うまもなく、信号は青になり、彼は手をふって行ってしまった。ロサンゼルスではコロナも見かけた。いすゞはトラックを入れていた。
 アメリカはモーターサイクルにしろ、自動車にしろ、まだまだ売れる国であり、その底ははかり知れないほどである。世界一の性能を持ったものならば、宣伝次第で、価格はその次にして売れるのではないだろうか。まだ難かしい要因はいろいろあるだろうが。


第三章 中米編

旅行期間=一九六六年三月二十三日〜五月二十八日
総走行キロ=九二九四キロ

メキシコの大サボテン

 一九六六年三月二十三日、メキシコの西端ティファナで中米の第一歩を踏んでから、四月十一日グアテマラ、四月十五日サルバドル、四月二十日ホンデュラス、四月二十九日ニカラグア、五月三日コスタリカ、五月七日パナマと、中米九二九四キロを走破した。
 中米は各地にマヤ、アズテクの遺跡が点在し、植民地時代の古い町のある非常に旅情豊かな土地である。都会を離れれば、わら屋根の、木技を束ねて泥をぬって作った見すぼらしい農家がある。馬、牛、ロバが彼らの足であり、また重要な運搬の役割を果たしている。水道、電気のない農家が多く、女、子供が水ガメを頭にのせ、素足で歩いているのを見かける。特にメキシコの農家は貧しいようだ。
 メキシコは、またサボテンの国だ。広い国土いたるところにサボテンが見られる。北部砂漠地帯のサボテンは、電柱の太さどころではない大サボテンで、広莫たる砂漠に目の届く限り続いている。夕日が遠くの山にしずむとき、真紅な夕焼けの中に、サボテンが浮かびあがる光景を見るのは、中米旅行中一番の楽しみだった。暗くならないうちに次の町にはいりたいと思うときでも、この夕日は待ち遠しいものだった。夕日を見たあとなら、次の町に着くのが夜の十時になろうが十一時になろうが疲れを感じないほどだった。
 グアテマラから南は、火山が多く緑の多い国だ。コスタリカ、パナマ間を除けば、どの国も首都から首都まで一日で走れるほど小さな国が集まっている。海岸線は蒸し暑かったが、グアテマラの首都グアテマラ、ホンデュラスの首都テグシカルパ、コスタリカの首都サンホセは、九百メートル以上の高地に位置しているため、気温も幾分低く、しのぎやすかった。主な産物が、バナナ、砂糖、コーヒー、綿等の農産物で、工業面では、精糖、綿織物ができかかったところである。

メキシコの大サボテン。モーターサイクルは、まるで玩具のようだ
メキシコの大サボテン。モーターサイクルは、まるで玩具のようだ

レースに出場、堂々と第二位に入賞

腕前はホメられず、ヤマハがホメられる

 ホンデュラスで、モーターサイクルのクラブの会長さんにあったとき「是非、日曜日に行なわれるレースを見ていってくれ」と強く勧められた。新聞にもレースの案内がでているので、素晴らしいレースを期待して、わざわざ出発を三日間遅らせて見に行くことにした。
 ところが実際は、レースの運びかたも、レースをやる人もまるでいい加減で、出場車もきちんと集まらず、クラブの単なる資金稼ぎのようなものだった。それでも観客が六百人ほど集まり、レースの模様はラジオで放送されていた。
 この町にはヤマハの代理店がなく、参加した車はホンダ、スズキの十五台で、五〇㏄、一二五㏄、二五〇㏄の三クラスに分かれていた。二五〇㏄クラスのレースのとき、出場車が少なく、私もとうとうかつぎだされてしまった。ヤマハはたった一台の出場だし、乗り手がこれまた、海の向うのたった一人の日本人ときているので、六百人の観衆の目は、いやでも私に集中されてしまった。承諾はしたものの、レース経験がまったくないので、ビリにでもならなければよいが、と内心おだやかな心境ではなかった。
 レースの出場車は私を含めて五台、四百メートルのじゃりのトラックを十二周するのである。
 スタート! 直線コースは、私のヤマハは馬力もあるし、回転数も上がるし調子がよかったが、最初のカーブですぐビリ、泥コースのカーブは、レースを実際にしてみなければうまく曲がれない。前半は、直線でとばし、カーブでビリということをくりかえしていたが、六周目ぐらいから、カーブでのタイヤの滑らせ方がわかってきた。じりじりと追い上げ、九周目で三番目。
 十周目で、二番目が転倒したため二番、十一周目でついに先頭におどりでた。しめたぞ! と思ったのも束の間のこと、大切な最後のコーナーで、スピードを上げすぎてしまい、大きく外側にそれてしまった。それを内側からぬかれ、残念ながら二番目に落ちてしまった。
 それでもクラブの連中、会長さんはじめみんな大喜び、私がゴールにはいると握手ぜめだった。放送局からのインタビューもあった。私をとり囲んだ野次馬は、“すばらしい、すばらしい”を連発してほめてくれた。といっても、これは私のヤマハに対する賛辞であって、どうも“君はいい腕前だ”という賛辞ではないようだった。

中米の道路状況

幹線道路はほとんど舗装。中でもメキシコの道路が抜群

 日本では、はっきり調べようのなかった道路も、実際に行ってみると、幹線道路は総じてよい道路だった。中でもメキシコは立派な道路を持っている。アメリカ合衆国から首都メキシコシティーまで太平洋側、中央、大西洋側と三本の道路があり、全部完全舗装されている。
 一番長いのは、私が通った西海岸のティファナから始まる太平洋側の道路で、その長さは首都まで二千九百三十キロに達する。
 グアテマラから南もパン・アメリカン・ハイウェーを利用すれば、ニカラグアで八十キロ、コスタリカで三百五十キロ、パナマで八十キロの砂利道があるだけで、あとは路面が悪いところはあっても、舗装道路ができている。
 もちろん、道路の完ぺきなアメリカ合衆国から中米にはいったため、舗装道路を走っていてさえ、ひどい道だと感じたが、ひとたび私が一九六二年にモーターサイクルで日本一周をしたときの、日本の南九州、南四国の道路を思いだしたとき、あれよりはよいと考えなおした。路面の悪いことは、タイヤの減りで明らかに表われる。しかし路面が悪くても、見通しがよいから八十キロはだせる。
 ロサンゼルスでかえたタイヤも一万キロ強走ったが、グアテマラではすでに後輪のタイヤ山は、たったの二分ほどしか残っていなかった。アメリカでは二万キロ使用したタイヤでも、後輪は四分は残っていた。

パナマで一緒に働いた黒人のメカニックたち
パナマで一緒に働いた黒人のメカニックたち

最悪の道路サンホセ—パナマ国境の山岳地帯

 砂利道でのタイヤのいたみは早い。コスタリカのサンホセからパナマの国境の間に、三千三百三十五メートルという険しい峠があり、中米縦走の難所となっている。私が通ったときは、雨季にはいって、しかも豪雨に出会ったため、道路は川のようになり、泥が流れていた。その中を突然石が突きでていたり、また落石があったりで運転には十分気をつけた。
 国境へもう一息というところで穴、それも泥水でわからなかった穴に突っ込んで、前輪をパンクさせ転倒してしまった。そのとき気がついたのだが、前輪に二ヵ所、後輪に二ヵ所、一、二センチの切り傷ができていた。雨の中のパンク直しはいやなものだが、それ以上走行不能になったらそれこそ大変である。

道は悪いが、景色のよいホンデュラス

 ホンデュラスは、中米でも一番近代化の遅れている国だ。その首都テグシガルパは標高九百七十メートルのところにあり、山々に囲まれた町全体が、スペインふうというのであろうか、赤茶色のレンガ屋根と白壁の家々が、山の中腹まで続く美しい町である。そんなところに魅力を感じてタイヤに悪いとは知りながら、首都テグシガルパから大西洋側のサンペドロスラまで三百キロの道を往復してみた。
 この道路はホンデュラスでは、幹線道路の一つだが、ものすごい悪路だった。乾季の終わりだったせいもあり、路面は湿気を失い、ボコボコの泥だらけ。そんな悪路の続く峠を三つ越えなければならない。それをいやしてくれるのは景色のすばらしいことである。峠を登りきると小さな石づくりの農村や、遠くの緑に包まれた山々が、バナナやヤシの熱帯樹と調和し、見事な風景を展開している。中米一美しい国といったらホンデュラスであろう。

要注意! 牛馬と道路標識

 中米の道路を走っていて気をつけなければならないのは、牛や馬である。どこでも放し飼いにされていて、ところかまわず道路にでてくる。どんな大きなトラックが警笛を鳴らしても動こうともしない牛がいた。カーブなど見えないところで、車ではなく牛や馬に出会うことがあった。道路わきには自動車にはねられたのだろう、牛や馬が哀れな姿で横たわっており、その上には容赦なく、十羽近いはげたかが肉をついばんでいた。
 ガソリンは、ロサンゼルスで用意した八リットルの予備タンクを一度も使わずにすんだ。メキシコを除いて他は、アメリカ系のガソリン会社がいたるところにはいっている。二サイクル専用のアウトボードオイルも、メキシコを除いて、どの国のスタンドにも置いてある。
 道路標識は、首都から離れるほど不備になる。国土の広いメキシコの北部の町は、町の中にはいると出口がわからなくなり、何度か人に聞かなければならなかった。モーターサイクルに乗っている限り一人である私にとっては、スペイン語を覚えるよい機会であった。

カとダニとゴキブリとネズミ

 宿泊のホテルは、小さな町にも一つは必ずあり、費用は二ドル前後だったが、そのきたなさには閉口した。ゴキブリはいるし、カやダニには悩まされる、大切な食料をネズミにさらわれたこともあった。ひどいところは、夜中にこうもりが飛び込んできたホテルがあった。中米では単独でテントを張ることは、用心のため避けた。
 コスタリカ、パナマと十日間、アラスカからフォルクスワーゲンのマイクロバスを利用した。ドイツ人とオーストラリア人の二人連れと行動をともにしたときは、山中と海岸でテントを張ったが、ホテルよりはるかに快適だった。これはグループ旅行の利点であろう。

中米での日本車の活躍

モーターサイクルに人気集まる

 日本のモーターサイクルはどこでも走っている。ただメキシコだけは、国産モーターサイクルのモトイスロと、ほかに一社があるため、輸入禁止に近い状態になっており、それ以前に売れたヤマハが少数走っているだけだった。若い人達にとっては、自動車より何とか手のとどきそうなモーターサイクルに魅力があるようだ。町の中にモーターサイクルを止めると、すぐに五、六人の若者が寄ってくる。中米には二五〇㏄以上のモーターサイクルは少ないので、私のヤマハもここではものすごく大きく感じた。みんなにデカイ、デカイといわれたからだろう。
 自動車も素晴らしい活躍をしている。山が多く、幹線道路を離れれば狭い砂利道しか持たない彼らにとって日本車はうってつけである。日本の全自動車会社がはいっていると思えるほど車種も多い。しかしアメリカ車、ヨーロッパ車に比べて、はいる時期が遅れたため、販売力ははるかに劣っているようだ。これらの国々は中間層の少ないのが難点だ。金持ちはアメリカ車を買う、農民は馬を使う、日本車が相手にするのは、その中間層と、荷物運びのトラック、連絡用のジープ、マイクロバスで、それらの活躍は目ざましいものである。ただ町が小さく、百―二百台の車がはいっていると、やたらに目につくが、絶対量は決して多いとはいえない。
 彼らの生活程度からいくと、モーターサイクルさえなかなか手がとどかないのが現状である。所得が低いうえに、モーターサイクルはパナマを除いて日本の二倍近い小売り価格になっている。自動車も一・五倍ほどの価格になっている。彼らの給料は一般的にどれくらいかというと、自動車、モーターサイクルの優秀な修理工で八十ドル前後、商店で働けば五十ドル前後、お手伝いさんは二十〜三十ドルである。食費さえ決して安いとはいえない中米だから、モーターサイクル、自動車、機械、電気製品等の輸入品になると、なかなか手がとどかないのが現状だ。
 中間層が増えるとともに、所得がもう少し伸びたとき、日本車の伸びが急激に増大するのではないだろうか。しかしながら、その時期がくるのは相当先のように思えた。


第四章 南米編

旅行期間=一九六六年五月三十日〜十二月九日
総走行キロ=二七九四七キロ

南米に突入、ヒヤヒヤのモーターサイクル上陸

いかに安く海を渡るかが旅の成否を決めるカギとなる

 パナマの大西洋側コロンの港から、小さな貨物船を見つけて船に乗ったのは、一九六六年五月二十八日だった。途中船の故障や何やらで、カリブ海の孤島サンアンドレス島、プレジディシア島に寄って、普通なら定期船で一日半でいけるところを、十一日間かかってやっとコロンビアのカルタヘーナについた。定期船を使うと、モーターサイクルを含めて一日半の旅に百ドルの費用がかかる。貨物船には船員のベッドしかなく、毎晩荷物のビールビンの上に寝ていた。モーターサイクルの輸送量ともで二十一ドルでは、文句もいえない。いかに安く、モーターサイクルとともに海を渡るかが、旅の成否を決めるカギとなるからだ。
 モーターサイクルを陸へ上げるときが大変だった。船が具合いの悪いことに岸から十メートル離れたところに停泊してしまったのである。クレーンでもあれば問題ないのだが、そんなしゃれたものはこの貨物船にはなかった。船長に何度もモーターサイクルをおろすように催促したが、ビールビンやコーラのビンをおろすばかりで私のモーターサイクルには一向目を向けてくれない。いつになるかわからないので、しびれを切らし、自分で船の前で仕事を待っている人夫の親分らしき者に、モーターサイクルを下ろしてくれと交渉した。彼は厚さ十センチ、幅三十センチで、長さがちょうど船と岸をつなぐ程度の板を見つけ、モーターサイクルをその板の上に乗せて渡せるだろうと判断し、仲間四人と四十ペソ(千円)でやってくれることになった。
 彼らは板を船と岸に渡した。三十センチでは狭いので、モーターサイクルの前と後ろに、人が一人ずつつくのがやっとで、横にはつけなかった。モーターサイクルはじりじりと移動しはじめた。モーターサイクルがひとたび傾けば、横で止める力はゼロに近いからもうおしまいだ。岸と船の間に“ボチャン!”であろう。このめずらしいモーターサイクル上陸に、すぐ黒山の人だかりになった。私は岸で息をとめて彼らの動きをみつめていた。彼らも慎重である。このときばかりは、心配で心配で、写真をとる気持ちなどおこらなかった。
 モーターサイクルが岸に徐々に近づいてきたが、半分までくると、板がしなって登りになってしまった。どうしようもなくモーターサイクルはストップ。幅三十センチの板の上で、人間二人とモーターサイクルが身動きがとれなくなった。モーターサイクルを前後でささえている二人の人夫の顔は真っ赤になり、筋肉がもりあがってきた。私はたまらなくなって、そばの小船に飛びのった。そして他の人夫に、もう一台あった小船に乗り反対側からモーターサイクルをささえるようにとどなった。両側からボートに乗った二人がモーターサイクルをささえたとき、モーターサイクルはふたたび、静かに動きだしてくれた。そっぽをむいていた船長も、この様子を見てはだまってはいられなくなったのだろう、上甲板から大声で人夫達に声をかけ始めていた。
 テンヤワンヤのすえやっとのことで、南米上陸の第一歩をふむことができた。私だけが土を踏んでも上陸したことにならない。モーターサイクルにまたがってはじめて上陸したことになるのだ。

雄大な南米

 南米は、北米、中米では見られなかったほど地形、風俗が変化に富み、その旅行は想像に絶する素晴らしく印象深いものだった。
 どの国もまだまだ未完成で、内にめぐまれた資源を持っており、その将来には、はかり知れないものがあるようだ。広大な土地は国々によってはっきりした特徴があり、そのスケールの大きさは言葉では表わせないほどである。
 コロンビア、エクアドルの険しい山々と深い谷、ペルー全土にわたる海岸線、四千キロ以上に渡って続く、チリー北部の不毛の砂漠と岩石、チリー南部の形の整った緑の山々と美しい湖水、チリーとアルゼンチンを隔てる雪におおわれた高いアンデスの山々、アルゼンチンのメンドッサからブエノスアイレスまで続く真っ平らなパンパ――まったくどれも、人間の力のおよばない、自然のままの雄大さだ。南米最小の国、ウルグアイは、国全体が丘をなした緑の牧場で、南米最大の国ブラジルは、南の国境から北のベレンまで五千キロ近い距離があり、その中のブラジリア、ベレン間の二千キロは、町らしい町のない赤土の悪路だけが続く殺伐とした土地であった。

南米の道路状況

コロンビアの険しい山岳道路

 パナマとコロンビアの間で切れたパン・アメリカン・ハイウェーは、コロンビアからあらためて始まり、南米の国々を結んでいる。
 コロンビアには南北に三つの山脈が走っているため、私が南米に足を踏み入れた、海岸線にあるカルタヘーナから首都ボゴダまでは、三つの大きな峠を越さなければならなかった。
 峠といってもいずれも三千メートル前後の高さがあり、首都ボゴダと大都市のメデジン、カリを結ぶごく一部の間に舗装道路があるだけで、あとはデコボコのひどい、急な砂利道ばかりであった。都市周辺から離れた道になると、乗用車はほとんど通らず、長距離トラックとジープばかりであった。モーターサイクルは少なく、首都ボゴダでも数えるほどしかみなかった。大型トラックの運転手は、コロンビアにモーターサイクルが少ないせいだと思うが、私のようなモーターサイクルに乗っている者を、無視した運転をする。急カーブばかりか、真直ぐな道でさえ正面から二台並んであらわれることがしばしばあった。
 深い谷を走る道もガードレールはまったくないから、危険きわまりない。道端に十字架が沢山たっている。これは中米でも見たものだが、その数は驚くほど多い。危険な急カーブに限って四本もたっていた。これは崖から落ちて死んだ人々、交通事故で死んだ人々の冥福を祈るため、その現場に立てられたものだという。
 最も険しいのは、カリからエクアドルの国境トウルカンまで五百キロの道である。左は深い谷、右は垂直の絶壁という急な登り道がいつまでも続く。よくこんなところへ、悪路とはいっても自動車の通れる道を作ったものだと感心した。しかし、あまり山また山のため、道をわざわざ山の頂上へ山の頂上へと高いところを越えるように作ったのかと、思いたくなってしまった。何故、山をさけて道を作らなかったのだろう。いや、ここでは山を越えなければ先へは進めないのだ。山の国なのだから――と当たり前のことを自分にいい聞かせて進んだ。交通量は少なく、思いだした頃に大型トラックと行きあうくらいだった。

羊腸の道。コロンビアの険しい山岳道路
羊腸の道。コロンビアの険しい山岳道路

今もいる二組の山賊

 コロンビアに山賊がいると聞いていたが、深い山々を見ればなるほどとうなづけてきた。実際に一つの村の人々が全員殺されたり、一台のバス五十人全員が殺されたというむごい殺人事件もあったのである。昔は十グループのそういった山賊グループがいたが、今は政府の討伐によって二グループに減ったといっていた。夜のツーリングは特に避けるように忠告されていたが、山道での行程がはかどらないため、しばしば夜遅くまでツーリングをしなければならなかった。ヘッドライトに照らされて、ふっと人かげが見えてきたときなどは、さすがに気持ちのよいものではなかった。

暑くない赤道直下のエクアドル

 エクアドルはスペイン語で「赤道」という意味だが、その名の示すとおり、赤道直下の国である。だが暑いと思ったら間違いで、朝晩はハダ寒いほどだった。というのも首都キトーは、二千八百六十メートルの山間に位置し、私のエクアドルの旅は、コロンビアとの国境トウルカンからペルーへぬけるまで高い山々を走ったからである。

赤道直下の国エクアドルのモーターサイクリストたち
赤道直下の国エクアドルのモーターサイクリストたち

地図に偽りあり、舗装とはマッカなウソ

 地図を見ると、国境をさかいにエクアドル側は舗装道路になっている。コロンビアの悪路からやっと舗装道路にはいれると思って喜んだところ、実際にエクアドル側にはいってみると、石畳で、長方形に切った石を、隙間だらけにガタガタにひいただけの道なのである。その道がいつか舗装になるだろうと期待しながら先へ進むのだが、いっこうに舗装はあらわれず、ついにキトーの町のわずか手前にくるまで二百六十キロも石畳が続いていた。三千メートル付近の高い地点を走る険しい道だったが、景色は素晴らしい。インディオが山の斜面を高い、高いところまで耕し、山はチェック模様の着物をきているようである。小さな町も彼らインディオのたまり場で、収穫物を馬やロバの背にのせて集まってきていた。
 石畳は、道の中間に三メートルほどしかないので、自動車がすれ違うときには、両車とも外側の車が石畳の外の土にでて、ものすごいほこりを立てるのである。黒いマントをかぶって道を行くインディオたちは、そのたびに車をよけ、ほこりをよけなければならない。
 キトーからアンバットーまでは百キロ余り、きれいに舗装されていた。高い山々の中に、一段と高く雪をかぶった山が見られた。赤道直下にも雪は降るのである。アンバットーから再び舗装は切れ、また砂利道にはいった。途中二カ所、崖くずれがあったらしく、工事中で一時間ほど待たされた。バスが一台、トラックが数台とまっていたが、彼らエクアドルの人々は待たされることに対して、すごく寛大である。じれったがっていたのは私一人だったようだ。
 クエンカからペルーとの国境近くアグア・ベルデまでは、最高にスリルのある道だ。暗くなってから走ったので、月明りに照らしだされて、右側の高い岩山と左にみえる深い谷が、シルエットとしてだけみられた。前方は垂重に落ちた崖の中間に、これから通る道がちょっとした窪みになって見えるだけだった。

エクアドルの長距離バス、石畳が国境から首都のキトーまで続く
エクアドルの長距離バス、石畳が国境から首都のキトーまで続く

生物はまったくいない、砂と岩と太陽の砂漠――ペルー

 ペルーは、海岸にそってパン・アメリカン・ハイウェーが走っている。国境から少し南へ下ると間もなく砂漠にはいる。この砂漠は、アメリカのテキサス、メキシコの北部に見られる半砂漠とは全然異なり、サボテンはおろか、乾燥に強い草もまるっきり生えていない。まったくの砂と岩だけの世界なのである。百キロ、二百キロ走ったところに小さな町がオアシスのようにあらわれ、「水あり」と書かれた標識がある。砂漠地帯の感を一層強くさせる。
 この砂漠地帯は、私の通った冬期を除いて、日中はものすごい暑さだそうである。風の強い日は砂嵐にも会った。砂が風に吹き飛ばされ、道路にはみだしてくる。そんなところをスピードをだして走ったら、いっぺんに転倒してしまう。そんな砂漠の中にあるのに、リマの町は砂漠を忘れさせるほど緑の多い、近代的な町である。しかし一歩リマの町をでると、また砂漠が続く。

一部を除いて全舗装のペルー

 ペルーは北から南のはじまで、約二千五百キロあるが、南のモレンド付近百キロの間を除いて、完全に舗装されている。二車線で、路面は幾分波があるが、見通しがよいため、ゆうに一〇〇キロはだせる道である。見通しがよいうえ、交通量は少ないというので、車は相当スピードをだしている。ところが場所によって、見通しの悪いカーブで、坂道がある。ゆだんし易い道路だから事故も大きく、目のあてられないようなこわれ方をした車が道路わきに転がっている。

すばらしいチリーの道路とサンチャゴ

 砂漠地帯はチリーにはいっても、さらに続いていた。チリーの路面は素晴らしく、交通量は非常に少ない。これだけ交通量の少ないところに、これだけ立な道路を作っているのだから驚いた。北部の開発を目的に、まず立派な道路を作ったという。まことに賢明なやり方である。
 ガソリンスタンドは少なく、国境のアリカから二百三十キロ離れた小さな村まで、一軒もなかった。南へ行くほど、間隔は短かくなるが、百キロ以上ガソリンスタンドがないところは、しょっ中あるから気をつけなければいけない。
 ペルーとエクアドルの国境から少し下ったトウンズスではじまった砂漠は、四百キロ南下したチリーのカルデラまで続いた。単調という以上に、走りながら自然の偉大さに感服していた。カルデラからいつしか道は山にはいり、緑が少しずつ増えていって、やがてサンチャゴの町にはいった。サンチャゴは、アンデスの雪山を眼前にひかえ、十数階のビルが立ち並ぶ、静かな町である。チリー硝石全盛時代に建てられたすすけたビルも多かった。

真冬のアンデスにアタック

ポルティーヨで涙をのむ

 チリーからアルゼンチンへはいるには、アンデス山脈を越えなければならない。真冬のサンチャゴの町でみるアンデスの山々は、深い雪におおわれ、あたかもわれわれを寄せつけないかのように見えた。私はまず、ロス・アンデスから、アルゼンチンのメンドッサへぬける道を試みることにした。三千八百三十二メートルの峠のある道だが、メーンルートなのだ。
 途中、いろいろな人にあい情報を聞いた。長距離トラックの運転手の話が、一番真実性があるようだった。しかし彼らの予想は、まず無理だろうということだった。それでも私は自分で実際に行って、だめだとわかるまでは、あきらめられなかった。
 ロス・アンデスを過ぎると、急に道は細くなり、私は川にそった急な砂道を登っていった。途中警官につかまり、アルゼンチンまで行くというと、とんでもない、ポルティーヨまでやっとだという。じゃ、そこまででいいよといって先へ進む。いつしか高いアンデスの懐にはいり、雪道になった。雪は二メートル以上になり、路面は氷でバリバリである。スキーの世界選手権を数日後にひかえているため、除雪は行なわれているが、急坂ゆえに、チェーンをまかない乗用車が後輪をからまわりさせていた。冷たい風の吹きおろすジグザグ道路を登り切ると、国境まで十キロのポルティーヨである。モーターサイクルで雪の上を走るのに、思ったよりすべらないのには感心した。後ろの七十キロに近い荷物がきいているのだろう。
 ポルティーヨから先は、深い雪にとざされて、前進はまったく不可能になった。目の前に切り立った山を見ながら、サンチャゴへ引き返した。無理だとわかっていたようなもののやはりひき返すのは寂しいものだった。

果敢に冬のアンデスに挑戦したが、厳しく拒まれる
果敢に冬のアンデスに挑戦したが、厳しく拒まれる

再びロンコッチェからのルートで挑戦

 真冬のアンデスを越えたいという希望は変わらず、可能性のあるロンコッチェからのルートへと南下して行った。
 サンチャゴから南へ八百キロ下がったところから、アンデスを越える道がある。緯度からみると条件は不利だが、アンデスの山々が低くなるところである。
 チリー南部は、南米のスイスといわれるほど景色が素晴らしい。農民が馬を使って畑を耕すのどかな田園風景の中を、コンクリート舗装の走り易い道路が続く。平らで真っ直ぐだが、町の出入り口には大きなカーブを作ってスピードを落とすようにしてある。
 幹線からそれた山道は急に細くなり、ぬかるみの道になった。プコンという夏ににぎわう観光地を通るが、季節はずれでしんみりとしていた。富士山を小さくしたような火山、ビリャリカ山は雪をかぶり、その前にビリャリカ湖が水をたたえている。日本の富士五湖を思わせる風景である。プコンからの道はさらに細くなり、アンデスの中にはり込んで行った。車はまったく通らず、ときどきマントを着て馬にまたがった農民に出会うだけである。
 そのうち、道路もはたして車が通るのかと思うくらい細く乱れてきた。

凍るような小川で転倒

 小さな川だが、橋のかかっていないところが二カ所あった。一本目は浅かったため、足をつけてうまく渡れた。雪どけの水は冷たい。ところが二本目の川を渡るとき、川底の大きな石にハンドルを取られて、すっころんだ。
 幅が十メートルほどで浅い川だったが、モーターサイクルがたおれてしまったため、冷たい水で下半身をびしょぬれにしてしまった。ずぶぬれになり、サイドバッグにも水がはいり、本、便せんなどが水びたしになった。それでも構わず先に進んだ。
 これが国境越えの道なのかと思うほど道はガタガタで細い。道路は雪におおわれ、人がやっと一人歩けるくらいだった。さらに進んでいくと、雪の中に足跡がポツン、ポツンとついている。そのうちにその足跡も一軒の農家にはいって消えてしまった。やがて、国境の十六キロの手前、プエスコという村に着いた。冷たい感覚がじわじわ手袋の中にはいり込み、全身がぐちゃぐちゃしはじめる。手の指の感覚はほとんどない。

雪が深く、もう前へは進めない

 さらに先へ進んだが、霧が深くなってきた。雪が三十センチぐらいになり、もう一歩も先へ進めなくなった。寒い。川で倒れてぬれたところが凍ってバリバリしはじめた。そこはプエスコからたった二キロ行ったところだった。霧のあい間から、切り立った岩のアンデスがときどき見える。やっぱり無理だったか。帰りはセツなく、ガックリうなだれて下って行った。こんどはどうしようもないほどからだがだるくなった。サンチャゴから下りはじめた頃から、寒さにやられて体力は落ちていた。
 前に通りすぎたプコンに着いたとき、一番最初に目についたホテルにはいった。からだが寒く頭がふらふらする。ブドウ酒をガブ飲みして、部屋へ荷物を運び込み、それっきりベッドに倒れるようにはいり、寝入ってしまった。
 真冬のアンデス越えは不可能である。やむをえず国境越えはチリーのロス・アンデスから、国際列車を使用しなければならなかった。

ベレンへの道

危険なアマゾンの河口

 一九六六年八月二十六日、海岸線にあるシュイという町からブラジルにはいった。国境から百三十キロは砂が十センチ近くもたまった走りにくい道だが、そこを過ぎると舗装道路になり、低い山をいくつも越えて、サンパウロに着いた。
 サンパウロを基点にして、パラナ、ベレン、リオと足をのばした。アマゾンの河ロベレンまで二千二百キロの旅に出ようとしたときは、多くの人々が反対をして、私のベレン行きをとめようとした。今までに、単独でモーターサイクルでベレンまで行ったという前例はもちろんないし、トラック、バスでさえも事故、故障にそなえて必ず二〜三台の列をなして走るほどの危険な旅だという。またときたま、辺地に住んでいるカボクロ(インディオと白人の混血で、人里はなれたところでバナナやパパイアを植え、わずかの家畜を飼って生活している)が、天候にめぐまれないとき、食糧目あてに人をおそうというのだ。行くならば、トラックに頼んで隊に入れてもらって、一緒に行きなさい、と心配してくれた。
 一般に忠告は大げさな場合が多い、アメリカからメキシコへ向かうとき、アメリカ人はメキシコは危険な国だから気をつけろといい、パナマでは南米へはいったらそれこそ危険だぞといって、武器もなにも持っていない私にするどく光ったジャックナイフをくれた黒人もいた。だがそれらの忠告を裏切るかのように旅はのんびりしたもので、人々はどこへ行っても親切だった。
 私は忠告を無視することにした。

アマゾンの河口ベレンへの道
アマゾンの河口ベレンへの道

反対を押し切って一路ベレンへ

 九月二十八日、ブラジリアを出た。サンパウロからきた道を百キロほどもどるとアナポリスという町がある。そこのロータリーを回ってベレン矢印のある方向に右折する。右折したと同時にアスファルトは切れ、赤土の道に変わった。この悪路が、二千二百キロのブラジル平原を走って、アマゾンの河ロベレンへと向かうのだ。
 赤土の悪路の交通量は少なく、時たま、ものすごいホコリを上げて走るトラック、バスに出会う。
たいてい二、三台続けてくる。すれちがうときは、ほこりで目の前がまったくみえなくなる。
 トラックはまるでジェットコースターだ。荷物を沢山乗せているため登りはゆっくりで、下りになると、ブレーキもかけず、ものすごいいきおいで坂を下る。
 道幅は広くとってあるが、洗濯板のように規則正しい波が路面に出来て走りにくい。背の低い灌木がどこまでも続く一本道だ。時たま農家がある。思っていたより人はいるのだ。ブラジル高原の太陽は暑く、じりじりと照りつけ、二日目で、手や顔はもともと黒かったのがさらに真っ黒になってしまった。

牛の強じんな生命力に感嘆!

 二日目の夕方、そろそろ日も落ちかけてきたころ、カーブを曲がって直線路にはいると、大型トラックが一台腹を上に向けてひっくり返っていた。どうしたのだろうと近づいてみると、荷台を路上に残して、溝に正面をぶつけて運転席はペチャンコになっている。その横に赤んぼを抱いた女が、鼻血をだしている。足は泥だらけだ。赤んぼはまっ裸でワンワン泣いている。男がハンマーでトラックの荷台をたたき切ろうとしていた。男は早口で何かいった。荷台の下を見ると、牛が十頭ほど下敷きになってもがいている。そばに牛が一頭たっていたが、これはトラックが倒れたとき、ほうりだされたのだろう。
 女は泣きじゃくる子供に、お乳をだしてすりむいたところをさすってやっていた。あわてて荷物をといて女に水を渡してやった。男は少しでも早く、牛を生かしてだしたいらしく、女のほうには目もくれない。
 窪地になっているすき間から、牛がようやくでてきた。小牛は五頭ほど。何の傷もうけていない。
大きい牛は、トラックの重みがかかって、だすのはむずかしい。そこへ、一台の大型トラックが通りかかった。ワイヤーを使って、さかさまになったトラックを、やっと起こすことができた。下敷きになっていた四頭のうち、一頭は首を折って完全に死んでいた。残りの牛もただ頭を動かすだけで立ち上がることができない。そのうち、一頭がよろよろと立ち上がると、残りの二頭もかろうじて起き上がった。強いものだな! と感心した。死んでいる牛は、すぐ首の所を短刀でさいて大動脈を切り、傾斜を利用して血をだした。
 通りがかりのトラックの運転手が、自分のことのように手伝ってやっているのには感心した。「サンパウロでいわれたことは、うそだ。こうやって事故を起こしたって、ちゃんと助けてくれるではないか」こう思うと、先の旅が、それほど困難でないだろうと胸をなでおろした。
 夜もとっぷりとくれて、昼とは逆に寒さがおそってくるころ、一台の長距離トラックが通りかかって、倒れたトラックの家族は乗って行った。トラックを見送ってから、また先へ進んだ。ライトに照らしだされて一匹のへビが飛びこんできた。よける間もなくひいてしまった。月がまん丸だ。今日は満月なのだろうか。雲が多いが星もよく見える。一匹のうさぎが、さっと道を横切る。またまたへビがでてきた。今度はうまくよけた。
 その日は朝早くから走ったが、四百四十一キロしか走れず、グルピの町にはいった。翌日、また朝早く出発した。悪路はさらに続く。後輪の車軸を折ったトラックが二台、手のほどこしようもなく道のまん中に立ち往生していた。私のモーターサイクルは実によく持ってくれる。暑さとガタガタ道はただ走っているだけで、腹が立ってくる。むしゃくしゃして、がむしゃらに走るだけだ。人家はまったく見当たらなくなった。
 オオカミのような動物が、道を横切るのを見た。アフリカにだけいると思っていたダチョウが、モーターサイクルの音に驚いて、林から飛びだしてきた。そしてものすごいスピードでモーターサイクルの前を走り、反対側の道路へ逃げて行った。
 ときどき会うカボクロは、みな古い銃を持っている。狩猟のためと自衛のために持って歩くのだが、夜などモーターサイクルのライトに照らし出されて、数人が銃を持ってあらわれるのを見るのは、気持ちのよいものではない。
 ガソリンが切れかかったことが二度あったが、きわどいところで助かった。
 途中にある村のドルミトリオ(主に運転手の宿泊所)では、ランプも使わず、ただ皿に油を入れて、ひもに火をつけて明りにしているところもあった。
 ブラジリアを出て五日目になって、ようやくそれまでの景色と異なり、高原の灌木から背の高い密林にと変わった。坂が急になる。ものすごい急坂だ。坂を登り切って、下りはじめても、まだ坂の下の方が見えない。路面もさらに乾燥し、ポコポコしてタイヤをとられる。周囲の高い原始林は、上の方だけ葉があり、下には灌木がはえていた。大きくて真っ青で、メタリックのように輝く羽をもつチョウが時おり飛んでいる。青以外にも黄色や赤のチョウがいるのだが、むやみに採集して輸出をするために、数はぐんと減ってしまったそうだ。

ベレンへ行く途中であった原住民の子供たち
ベレンへ行く途中であった原住民の子供たち

無事ベレンに到着

 その日三百キロ走ったところで、四日ぶりにアスファルトにでた。あとはわけなく走れた。スコールの降る中を百キロ走って、目的地ベレンに着いた。
 ベレンの町にはいったのは六時ごろ。赤道直下に近いせいか、人々は黒人ではないが黒い。人の服装は、質素ではだしが多い。マンゴの木がおいしげって、まったく南国的だ。雨上がりの町の中はすんだ空気で気持ちがよかった。
 アナポリスから悪路にはいって二千二百キロ、北海道のはじめから九州のはじぐらいまでの距離を、モーターサイクルは実によく走ってくれた。

最大のアクシデント、フレームの前部が切れる

 ベレンから、アマゾンの日本人移住地を訪れたあと、再びあの悪路を通って、サンパウロへと向かった。
 ベレンへ向かうときには、いくら悪路でも、初めて行くという未地の世界へ向かっているのだから興味があった。しかし帰りは一度通った道、それもあの悪路を二千二百キロも走らなければならないと思うと、最初から頭がいたかった。サンパウロへと、ただひたすらに走った。一日六百キロのペースである。
 ベレンを出て三日目のこと、アナポリスまであと三百キロという地点で、波状の路面を七十キロ近い速度でとばしていた。ふと気がつくと、バックミラーに正常の位置より下の部分がうつっている。速度をゆるめて止まろうとしたとき、フワッとシートが下がって、ガタガタガターッときた。こんな故障は、はじめてである。止まって点検してみると、フレームの前部が切れて何とエンジンが地面に着いてしまったのである。速度の速いままだったら、大怪我をしたであろう。積算計は、六万五千三百六十七キロを示していた。この悪路にはいって、四千キロになるのだ。片道だけでも酷なのだから、往復ときては、どんなモーターサイクルでもストライキをおこしたくなるに違いない。そのうえ、このヤマハは常に七十キロ以上の荷物を積んで、過酷な条件の中を六万五千三百六十七キロも走ってきているのである。こんなところで立ち往生しても私はモーターサイクルに“同情”せざるを得なかった。
 ベレンへ行くときには、途中二回のパンクにあった。ただ立っているだけでもだるい炎天下の中で、フーフー汗を流してどうやら直せた。しかし今度は自分の持っているいかなる工具、携帯部品を使おうとも直らない。ただもうひたすらにトラックを待つだけだった。日影の何もない炎天下の中を、ボンヤリと二時間ほど待つと、一台のトラックがベレンの方向からやってきた。道に立ちふさがってトラックを止め、事情を説明するとこころよくモーターサイクルを乗せてくれた。トラックの前座席にすわると、安心と疲れがでていつの間にか寝こんでしまった。
 目がさめるとあたりは暗かったが、トラックの速度は遅く、まだアナポリスまで着いていなかった。途中のドルミトリオで泊まることになった。運転手と助手は、ドルミトリオに泊まったが、私はモーターサイクルが気になり、トラックの荷台にのせてあるモーターサイクルの横に、寝袋を敷いてもぐり込んだ。金はかからないし、外の空気は快適である。
 翌日、午前中にアナポリスの町にはいった。修理工場を見つけてトラックを下りた。運転手は十コント(千五百円)を請求した。三百キロの道のりだから、それ位いはやむをえないだろう。モーターサイクルをバラして、フレームの折れた部分を溶接し、サンパウロの町にもどったのは、十月十四日だった。

南米のモーターサイクル、自動車

働くのが嫌いなブラジル人

 サンパウロには日本の会社がいくつか進出している。そのうちでトヨタ、クボタ、NGK石川島造船等を訪ねた。どの会社もインフレを心配して設備投資をひかえたせいか決して大きくはない。
 大企業とちがって多くの問題があるのだ。どの会社でも困っているのが従業員問題である。日本と同じ尺度では考えられないことだが、従業員の能力は日本人の半分以下だという。要するに働くのがきらいなのだ。
 「ブラジル人は、もうけることとは金を沢山もらうこと以上によりさぼることだと思っている」とクボタの工場長がいっていた。便所のカギは日本人の社員が持っていて必要な時だけ渡すそうだ。便所をあけておくと三十分でも一時間でも便所へ行ったきり帰ってこない者がいるそうだ。また従業員の中で、なかなかよく働く者がいて給料を上げてやった。するとその従業員は休む日が多くなって結局昇給の効果が無くなってしまったという。
 また資材も大会社が優先であり、その片手間に運んでくる。そのせいで、資材がストップして工場が止まってしまうことがよくあるそうだ。
 そんなこともあって車の価格は非常に高く、トヨタのジープが一万一千八百八十コント(百八十万円)もする。ブラジル最大のメーカー、フォルクスワーゲンでさえ、日本円で約百万円と日本の高級車なみの価格である。このフォルクスワーゲンがブラジルの自動車の半分以上をしめている。ブラジルにはトヨタ、ワーゲンのほか、ルノー、シムカ、DKW(二サイクル三気筒)、ベンツが進出している。

5割以上の占拠率を占めるブラジル製フォルクスワーゲン
5割以上の占拠率を占めるブラジル製フォルクスワーゲン

世界で一番モーターサイクルの普及していない大陸

 ブラジルに次ぐ南米の自動車生産国はアルゼンチンだ。アルゼンチンでは大半が国産化されたフイアットでしめられている。他の国々ではまだ国産の能力はなくノックダウンに着手したところだ。
 さてモーターサイクルはどうだろう。自動車産業の活発化したブラジル、アルゼンチンでさえ大きなメーカーはない。あれだけ大きな人口をかかえてモーターサイクル産業が伸びない原因は何であるか疑問である。
 日本製モーターサイクルの輸出もかたい輸入制限に会って台数は微々たるものだ。金持ちの息子が遊びに使う位いなもので、実用としてはほとんど使われていない。彼らは単車の使い道を知らないのだ。モーターサイクルがあれほど少ない大陸は他にはない。
 手ごろな高性能の日本車が進出し、単車の使い道を知ったとき、爆発的に売れる大きな可能性をひそめた大陸といえる。


第五章 ヨーロッパ編

旅行期間=一九六六年十二月二十三日〜六七年八月十七日
総走行キロ=三四二三二キロ

 ブラジルから南アフリカ連邦へ渡る計画だったが、南アフリカ連邦の人種差別に会い、四十日間待たされたうえ、結局入国拒否の宣告を受けた。ブラジルから他のアフリカ諸国へ船で渡るのはむずかしい。まずヨーロッパへ行こうと、ポルトガルへ渡った。
 ポルトガルから冬のヨーロッパを北上して、スペイン、フランス、ベルギー、オランダを通過。その後西ドイツに向かい、きこりとして三ヵ月間働いて旅費を作り、西ドイツG・P、マン島T・T、ダッチG・P、フィンランドG・Pと四つの大きなレースを見るチャンスに恵まれた。

中世の代表的なポルトガル、レリアの城
中世の代表的なポルトガル、レリアの城

西ドイツ

キャンプの好きなドイツ人

 五月六日のレースの前日、働いている村で知り合ったモーターサイクルファン二人と、早朝村を出た。四月いっぱい雪の降っていた西ドイツ南部も、五月にはいって暖かい春の日ざしが、原野に森にさし込んできていた。
 一緒に出発した二人の友達は、仕事の休みを利用しては、遠乗りを楽しんでいた仲間である。彼らは実によくとばす。アウトバーンを離れた道路は決して広いとはいえない。田舎の細い曲がりの多い道でも、彼らは百キロ、百十キロと、何事もなくとばす。スピード感の違いをはっきりと知らされた。清々しい朝日の中を一列に並んで走る。村から西ドイツG・Pの開かれるホッケンハイムは、古い美しいハイデルベルグの町のそばにある、何の変哲もないドイツの小さな町である。
 われわれがホッケンハイムに着いたときには、すでに色とりどりのテントでいっぱいだった。ヨーロッパの人人の中でも特にドイツ人はテントが好きであり、テントを張ってはテント生活をエンジョイしている姿を、しょっちゅう見かけることができる。
 どんな大きな町にも、田舎の町にも、山の中にも、湖のそばにもテント村があり、道を失っても、キャンプ村のサインをすぐ見つけることができた。モーターサイクルや自動車にテントを積んだスピードファンたちは、レースが明日というのに数日前からコースの周囲にテントを張り込んで、プラクティスを見ながら本番の日を待っていた。このレースをうまい具合いに利用して、初春の数日をのんびり過ごすのである。長椅子をテントの前にだし、裸で日なたぼっこをしながら音楽を聞く人、本を読む人、レースの話に夢中になっている人、様々である。彼らは自炊道具から折りたたみの机、椅子をもってきており、食事時になると机を囲んで腹を満たしていた。我々のグループも彼らと同じように場所を見つけてテントを張った。

ジャコモ・アゴスティーニとの出会い

 昼過ぎに降り出した雨は、プラクティスが終わり、夜になってもやまなかった。雨の中をモーターサイクルファンでいっぱいの町をぶらついた。特別変わったこともなく、テントへもどろうとキャンプ村の方へ歩いていると、あるホテルの裏庭で、どこかのチームが最後の仕上げをしていた。我々はもちろん近寄っていった。
 チームの一人が、私に、
 「やあ! 日本人だな」と話しかけてきた。私は、
 「そうだよ! 君はどこからきた?」と聞き返したが、彼はわかったかわからないでか、答えようとしなかった。あとでわかったのだが、彼は五百㏄の世界チャンピオン、ジャコモ・アゴスティーニであった。モーターサイクルファンで、G・Pレースを見にくるくらいなら彼の顔は知っておくべきだった。彼が返事をしなかったのは、通じなかったのではなく、私がとぼけて、あるいは馬鹿にして、「君はどこからきた?」と聞き返したのだと思ったにちがいない。しかし小がらな黒髪のイタリアンボーイ、アゴスティーニは、初めて見る大レースに親近感を与えてくれた。
 その後アゴスティーニとは、マン島とフィンランドG・Pで会ったが、ホッケンハイムでのことはまるっきり忘れてしまっているようで、
 「二年もモーターサイクルで回っているの!」と私の旅に驚嘆の意を示してくれたり、「イタリアのモンツァにもぜひ来いよ!」と自国でのレースを、一人でも多くの人に見せたいらしく、さそうのだった。

1967西ドイツGPホッケンハイムにて
1967西ドイツGPホッケンハイムにて

西ドイツG・Pレース経過

 このレースには、二十万人という観衆が集まり、大盛況だった。会場も、スタート、ヘアピンカーブを囲んだ大きなスタンドのついた、立派なスタジアムだった。
 テントを張って待機していた人々は、早朝からどっとスタジアムのよい席をとろうと流れ込み、開始の一時間も前から、正面スタンドは足の踏み場もないほど人がはいっていた。心配された雨もやみ、快晴無風のレース日和であった。しかし、レースは少しばかり荒れ模様で、結果は以下の通りであった。
▽五十㏄クラス=文句なくアンシャイト(スズキ)の優勝、グラハム(スズキ)片山(スズキ)はマシンの故障で脱落し、二位にクライドラーがはいる。
▽一二五㏄クラス=他を大きく離して走っていたリード(ヤマハ)とアイビー(ヤマハ)が、中盤で一周おくれのライダーの転倒に巻き込まれ、二人とも転倒するという場面があった。一周おくれの四台の車のうち一番前を走っていた車がわれわれの席の目前で転倒、追いぬきにかかっていたリードとアイビーは、彼らに巻き込まれ、またもや次々と転倒、三位を走っていた片山(スズキ)が優勝をさらった。
▽二五〇㏄クラス=ヘイルウッド(ホンダ)アイビー(ヤマハ)がスタート後、まもなく姿を消し、リード(ヤマハ)がトップでブライアンズ(ホンダ)が二番手、ところが中盤、リードがピットイン、ブライアンズがトップに立つ。その後、ピットから飛びだしたリードの追撃はものすごかった。一周ごとに差を縮めて行くリードに観客もかたずをのんで見守ったが、わずかの差でブライアンズが逃げ込み優勝。
▽三五〇㏄クラス=ヘイルウッド(ホンダ)の優勝。
▽五〇〇㏄クラス=スタートからヘイルウッド(ホンダ)が飛び出し、アゴスティーニ(MV)に大きく差をつける。後半戦、ヘイルウッドはスーッとピットにはいったままでてこず、アゴスティーニの優勝。

T・Tレース、マン島への道

西ドイツの親友アルフレッド。彼のホンダと私のヤマハ
西ドイツの親友アルフレッド。彼のホンダと私のヤマハ

西ドイツの二人の友人

 六月五日、西ドイツのG・Pからちょうど一ヵ月後、ドイツの友達二人とマン島へ出発した。アルフレッドという溶接工は、ホンダの四五〇㏄を持っている。彼は大の日本びいきで、アルバムにはホッケンハイムを訪れた日本人ライダーの大きな写真を張っていた。私の一番の親友であったが、英語はまったく話せず、独語しかしゃべれなかった。独語のほとんどわからなかった私も、三ヵ月もすると、彼のおかげで何とかわかるようになっていた。
 もう一人はヘルマンという機械技師で、彼はBMWの六〇〇㏄を持っていた。モーターサイクルで大きな事故をおこし、大手術をして左右の足の長さが三センチも違うという。そんな事故にもこりず、彼はまだモーターサイクルのとりこである。

美女と美男? が歓談。パリーのパーティにて
美女と美男? が歓談。パリーのパーティにて

イギリスへ

 フランスのカレーからドーバー海峡を渡り、イギリスに第一歩を印した。真っ黒な雲と冷たい雨がわれわれを待ちかまえていた。船は大きく立派だったが、初めて大きな船に乗ったアルフレッドは、一時間半のゆれもしない船旅に気分を悪くしていた。
 ドーバーではヘルマンの友達でイギリス人のヘイドンが加わった。彼はノートンの六〇〇㏄を持っており、四百キロ離れたウェールズのブリジェントからわざわざ迎えにきてくれた。その日はドーバーからさらにロンドンを通り、四百キロ走ってヘイドンの家へ行った。イギリス南部は山がなく、小さな丘の連続である。中央分離のハイウェーは、ドイツに比べたらごくわずかしかない。それでも二車線の一般道路の路面はなめらかで、町をはずれれば、七十マイル(百十二キロ)まで出せる。イギリスはご存知のように日本と同じ左側通行である。私にとっては二年ぶりの左側通行だった。イギリス国内のスピード制限は、ハイウェーでも、スピードの指定していない一般道路でも、一律七十マイル(百十二キロ)におさえられている。

転倒、またもや右足首を痛める

 マン島へはいる前日、ヘイドンの所属するモーターサイクル・クラブへ行き、イギリスのまずいビールを飲みながら歓談、イギリスではアルコール飲料の販売は十時半までと法律で決められている。
あとは外のスタンドで、ポテトチップと魚のフライの立ち食いということになる。
 ヘイドンの家からリバプールまでは三百五十キロある。リバプールから、マン島へ行く船に乗るのである。
 六月九日、今日はいよいよマン島へはいる日だ。早朝六時、彼の家を出発した。ウェールズは山の続く地方で、そのクネクネ曲がる道には、羊が放し飼いにされており、うろうろ歩いているので、ぶつからないよう気をつけた。
 町の中以外は七十マイルから八十マイル(百十キロ〜百三十キロ)のスピードで飛ばす。荷物を七十キログラムも積んだ私には、慣れない道を彼らについていくのがやっとだった。それでも私のヤマハYDS-Ⅲは、ノートン、BMW、ホンダの大排気量に敗けずによく走った。二車線の見通しの悪い道だが、百三十キロだしても、人が飛びだしたり車が飛びだしたりする心配はないから、安心して走れる。四台のモーターサイクルは、一路リバプール目ざして、気持ちよく走り続けた。
 ところが、リバプールまであと三十キロの場所で、思いがけない転倒をやらかした。カーブを曲がったところで、五十メートルほど先が道路工事中で一方通行になっていた。折り悪しく、こちらは赤信号で、向かい側からトラックがくる。一番前のヘイドンから急ブレーキがかかった。三番目を走っていた私は、少排気量をおぎなうため、スリップストリームを利用するため二番目のヘルマンにピッタリくっついて走っていた。ブレーキをかけるタイミングが何分の一秒かおくれたので、前のヘルマンより速度が落ちない。追突をさけて右へハンドルを切ると、大きく転倒である。
 カナダで折った右足首を、またまた痛めてしまった。救急車で病院に運ばれ、左手をぬい、右足首のレントゲンを撮った。幸い骨には異常はなかったが、カナダで骨折部に入れたネジクギが折れてしまった。
 イギリスでは医療費はすべてただ、事故を起こすならイギリスに限る。保険等をかけていない私にとっては、非常に助かった。

ビッコでマン島入り――ヤマハレーシングチームの世話になる

 救急車で船まで運んでくれるという病院側の言葉を聞いて、彼らは先にマン島にたった。翌日になると、船までではなく、そばのバスまでしか運んでくれない。リバプールでバスを降り、港まで四苦八苦して足を引きずっていると、一人の紳士が肩を貸してくれた。船賃もマン島まで十シリング(五百円)ほど足りなかったが、それまで出してくれた。
 船はマン島へ行く若者でいっぱいだった。皮ジャンパーに身をかためた男女が、数百人も列をなし、モーターサイクルで次々と船に乗り込んできた。モーターサイクルという大事な足をとられた私は、改めて寂しさを感じなければならなかった。三時間半で、マン島の表玄関ダグラスの港についた。モーターサイクルファンたちは心をはずませ、大きな排気音だけ残して船をでて行った。後に残ったのは私一人だけだった。しばらく待つとアルフレッドたちではなく、ヤマハレーシング・チームの車があらわれた。事故を彼らから聞いて、迎えにきてくれたのである。その日はゆっくりと、レーシング・チームの人たちと暖かいホテルで寝食をともにさせてもらった。

マン島T・Tレースでヤマハレーシング・チームの面々と
マン島T・Tレースでヤマハレーシング・チームの面々と

島には無数のモーターサイクル

 島はものすごいモーターサイクルの数である。海岸に面した道路には数百台のモーターサイクルが並んでいる。夜、このモーターサイクルを見ながら散歩するのだが、オートショーや博物館の見学以上の面白さがある。
 彼ら英国のモーターサイクルファンたちは、モーターサイクルを買ったままの形にとどめておかない。皆自分の気にいるように、シートを変え、タンクを変え、シフターの位置を変え、色をぬり変え、どれを見ても個性的な車にしている。
 私は、アルフレッドたちと再会し、さらにヘルマンの友たち四人と合流し、計八人になって、町はずれの静かなキャンプ場にテントを張った。洗面所、シャワー、売店のついた設備の整ったキャンプ場で無料だった。

けわしいマン島のコース

 一周二十七・七三マイル(六〇・三七キロ)のコースは、路面が荒らく、私も走ってみたが、標高差の多い、危険なカーブの多い、おそろしいコースである。グースネックといわれるヘアピンカーブの急な登り道、ケペル・グートからの急な下り道の幅は細く、片側は石垣だった。
 一二五㏄で三位に入賞したヤマハの本橋明泰選手は、マン島初出場である。彼はこのコースは、一般のコースを走るテクニックではとてもだめで、イギリスのライダーがとんでもない走り方をしているが、実際にはその方が速く、コースに慣れている人がどれだけ有利かわからないコースだと話してくれた。
 レースは一日おきに一週間かけて行なわれ、この一週間はT・Tウィークで、お祭りのようなさわぎであった。幸い一週間、雲一つ見えない晴天続きだった。

マン島T・Tレース経過

▽二五〇㏄クラス=ヘイルウッド(ホンダ)がスタートから飛びだす。私は山からの下り、出発点から三十四マイル(五十四・五キロ)の地点でレースを見ていたが、彼のコーナリングはものすごいものだった。他の誰よりもカーブを出るときの加速が速い。アクセルを開く時期は、カーブの中間よりはるかに前である。スタートの悪かったリード(ヤマハ)が追い上げ二位にはいる。三位を走っていたアイビーは四周目で姿を消し、代わってブライアンズが三位に入る。
▽一二五㏄クラス=片山(スズキ)アイビー(ヤマハ)が消え、リード(ヤマハ)とグラハム(スズキ)の一騎打ち、グラハムは執ように食いさがったが僅少の差でリードの優勝、三位には本橋(ヤマハ)がはいる。
▽三五〇㏄クラス(JUNIOR)=ヘイルウッド(ホンダ)優勝。
▽五十㏄クラス=グラハムとアンシャイト(スズキ)が飛びだす。スタートを二分ほどおくれた片山(スズキ)の追撃は見ごと。三周目にしてトップにおどりでた。だがマシンが続かずグラハムの優勝。父・レス・グラハムをこのT・Tレースで亡くしたスチュワート・グラハムが長い間夢見ていたマン島での優勝を手にした。
▽五〇〇㏄クラス(SENIOR)=アゴスティーニ(MV)の健闘が光った。スタートからヘイルウッド(ホンダ)をリードする。数秒の差だが四周目を終えても一位を堅持して、そのまま逃げ込むかに見えたが、五周目でチェーンが切れる不運さだった。チェーンが切れなかったらどうだったろう、ヘイルウッドが苦戦したのはいうまでもない。

ダッチG・Pへの道

アルフレッドとの旅

 ヘルマン、ヘイドンと別れた私はアルフレッドと二人になった。左手でクラッチをにぎるのがやっとだった。私は病院でもらった薬を飲み過ぎたのか、からだの調子が悪く毎日フラフラだった。町を見る気力もなく、モーターサイクルで目的地に着くと、ただテントに寝ころぶだけだった。英語の話せないアルフレッドは、私が出歩かないので、いつもつまらなそうにテントでゴロゴロしていた。
 七月二十一日、ドーバーを渡り、オランダのアッセンへ向かった。フェリーでドーバーを渡ったのはもう夜の十時。フランスを数時間で通過するというのに、二日分の保険金九フラン(六百三十円)を払わされた。ヨーロッパはどの国でもこの保険金を入国時に払わされる。痛い金である。安いドイツで一ヵ月の保険金が十マルク(九百円)、高いスカンジナビア諸国で一ヵ月七十マルク(六千三百円)であり、まともに払っていたのでは、とてもやっていけない。穴はいろいろとあるもので、それをおおいに活用した。一時間ほど走り、夜の十一時に一軒のカフェーにはいる。フランスの若者たちはやることがないのか、玉突き台、卓上サッカー台を囲んで騒いでいた。ドイツ人と日本人のわれわれがはいっていくと、一瞬静かになり、こちらを見ている。一つの机に腰を下ろしたが、彼らの視線はなかなか離れようとしない。日本語と英語とアルフレッドの独語で何か食べるものを注文するが、まったく通じない。皆ガヤガヤやり始め、結局コカコーラとサンドイッチは彼らにも通じた。フランスはヨーロッパでも、キャンプ場の少ないところ、腹ごしらえをしたわれわれは、ベルギーとの国境近くの農村の道端にテントを張った。
 ベルギーは道はよくない。アウトバーンも名ばかりで、つぎはぎだらけだ。一般道路も石畳が多く凸凹である。
 オランダにはいると道路は見事になった。狭い国土を縦横に路面のよいアウトバーンがいきわたっていた。緑の農村風景の中に昔ながらの風車があちこちに見られ、実にのどかであった。そんな中をアルフレッドと私は、百十キロのスピードでアッセンに向かった。
 途中の町で休んだとき、アルフレッドが本屋で、私の記事の載っているモーターサイクル雑誌を見つけてきた。オランダの“モーター・スポーツ”という雑誌だが、二月末ドイツへはいるとき寄ったさい、この雑誌社を訪ねて、今までの旅を記事にして売ったものだった。
 フランスでも売ったが旅費のたしにはもってこいの方法である。だがうまくやらないと売れない。個人ライターが多いので、そんなのに当たると彼らが記事を作り、あちこちに売ってしまう。
 我々はコースの中にあるキャンプ場にテントを張ったが、前日のプラクティスは曇り、当日の前半は雨が降るレースだった。一周七・七キロ、カーブの多いコースである。

ダッチG・Pレース経過

▽五十㏄クラス=片山(スズキ)の文句のない優勝。
▽三五〇㏄クラス=雨が小降りになり、途中で止む。アゴスティーニ(MV)がトップでヘイルウッド(ホンダ)はピッタリとくっついて進む。アゴスティーニが逃げ切れるとは思わなかった。中盤戦にはいり、一周おくれの集団を利用して、ヘイルウッドがトップにおどりでる。彼のレース経験の豊かさ、駆け引きのうまさをまのあたりに見た一瞬だった。その後はアゴスティーニを引きはなす一方でゴールイン。
▽一二五㏄クラス=リード(ヤマハ)アイビー(ヤマハ)のスタートは悪く、他から三十秒以上おくれていた。片山(スズキ)がトップを行く、五十㏄での優勝といい、彼は日本人ライダーでただ一人のグランプリライダーとして、どこでも非常な人気をはくしている。後半にはいって、リード、アイビーがトップに立ち、リードが優勝。
▽二五〇㏄クラス=リード(ヤマハ)がトップで出る。ヘイルウッド(ホンダ)ブライアンズ(ホンダ)アイビー(ヤマハ)の順で続く。二周目リードのマシンに変調をきたし、次第におくれ、ヘイルウッドがトップに立ち優勝、アイビーがプライアンスを押え二位になった。
▽五〇〇㏄クラス=ヘイルウッドが終始トップ。アゴスティーニ(MV)はパソリーニ(ベネリ)に手こずっていた。終盤まで二位をパソリーニにおさえられていたが、僅少の差でアゴスティーニが二位にはいる。

フィンランドG・Pへの道

本来の一人旅にもどる

 二週間の休暇をもらってドイツからずっと一緒に旅をしてきたアルフレッドは、ダッチG・P終了とともに、西ドイツ南部の村へ帰って行った。私は彼と別れて、また本来の一人旅にもどった。
 ハンブルグから真っすぐ北へ上り、デンマーク、スウェーデン西海岸を通って、ノルウェーのオスローにはいった。
 スカンジナビア諸国は、フィンランドを除き、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーとお互いに国境はあってもないもの同然で、税関吏さえたっていない。
 スウェーデンは日本と同じ左側通行であった。日本、英国のように島国ならともかく、ノルウェー、フィンランドと接したスウェーデンだけが、また何で左側なのか、何度か聞いてみたが、昔からそうなんだというだけで、理由はわからなかった。面白いことに自国製のボルボ、サーブさえ左ハンドルである。左側通行で左ハンドルとは解せなかったが、答えは、輸入のもっとも多いフォルクスワーゲンが左側ハンドルで、国民がそれになれているからそうなったまでのことだそうだ。旅行者のどっとくる夏に、スウェーデンだけが左側通行なので事故が多い。そんなこともあって、この九月に右側通行に変えることになっていた。何から何まで逆にしなければならないから莫大な費用がかかる。準備のできた右側通行用の信号が袋をかぶって町のあちこちで、九月のくるのを待っていた。

美しい北欧の自然

 ノルウェーはオスローから西岸のベルゲンまで往復したが、湖と森とフィヨルドの作る景色は、実に見事だった。フィヨルドの付近は高い山があり、残った雪がまだ道の両側に、四、五センチもつもっていた。フィヨルドの入り組んだこの地帯は、フェリーボートがくまなくいきわたっている。寒い冬でさえ海流の影響で凍らないフィヨルドも、雪の多いこの地方では、冬は車が走れなくなるため、フェリーボートは必要なくなる。
 オスローへもどってすぐスウェーデンへはいり、ストックホルムから北上した。スウェーデンの森と湖の景色は美しいが、まったく変化がなくあきてしまう。それよりビキニで野良仕事をしている農村の娘さんや、庭先でビキニになって日なたぼっこをしているスウェーデン娘のほうが、はるかに目を楽しませてくれた。
 スウェーデンからフィンランドにはいり、北上してラップランドを通過、ヨーロッパの最北端ノルトカップにはいったのは、七月十六日のことである。
 北極圏にほど近い北緯七十一度というこの土地は、木が一本たりとも見当たらず、苔とわずかばかりの草がはえているだけだった。真夜中でも太陽は沈まず、北に傾いた太陽はしばらく静止した後、また昇り始める白夜である。そんな中をトナカイの群れがわずかの草を食べ、のんびり暮らしている、まるでおとぎの国のようだった。

人気のある日本製自動車、モーターサイクル

 フィンランドにはいってまず気がつくのは、日本製の自動車、モーターサイクルの多いことである。ダットサンを筆頭にトヨタ、いすゞ、最近はマツダもはいってきていた。日本車に対する評判はよく、今後も伸びが期待される。
 変わったところでは、ソ連製のモスクビッチ、ボルガ、チェコ製のスコダ、それにポーランド製の自動車がはいっており、モーターサイクルでもソ連製のものやチェコのヤワ、東独のMZが多数はいってきていた。最近はそれでも数が減ってきたそうで、一時はものすごい数だったそうだ。なぜかというと、とてつもなく安いことと、輸入会社は金を払わずに、共産国から自動車をひきとり、売れた分から払っていくというちょっと考えられない方式を採用させているからである。性能面ではやはり故障が多く、安くても敬遠する人が多かった。

モトクロス世界選手権

 イマトラのフィンランドG・Pに先だって、七月三十日ヘルシンキから北へ百キロ離れたヒビンカという町で、モトクロスのレースが行なわれた。スカンジナビア諸国では、スピードレース以上にモトクロスに人気がある。モトクロス・レースを初めて見る私は、そのほこりのすごさに驚いた。スウェーデン製のハスクバーナが大半を占め、チェコのCZも数多く見られた。
 世界チャンピオンのトルステン・ホルマン(スウェーデン)と歓談したが、十一歳からモトクロス・レースをやっているそうである。ヨーロッパ、アメリカと毎週レースに出ており、日本へもぜひ行ってみたいと話していた。日本のモトクロス・マシンはないのかと聞かれたが、日本製のも、もうすぐヨーロッパにも出現するだろうと、スウェーデン製のハスクバーナに競争心をもやさずにはいられなかった。
 レースは二ヒート制になっていて一周約二キロのコースを二十周。一時間ほどおいてまた二十周するという激しいレースだ。全身泥だらけになったライダーたちは、後半はもう目がかすむほどだと語っていた。当日のレースは同じスウェーデンのペテルソンが優勝。ホルマンは二位に終わった。
 レースの合い間にスピーカーで私の紹介があり、観客の見守る中を、一人コースを走らせてもらったが、砂をあつくひいた、大きな砂利のころがっている、急な上下のコースにまたしても驚がざるをえなかった。

1967 250㏄モトクロスチャンピオンT・ホルマンと
1967 250㏄モトクロスチャンピオンT・ホルマンと

第六章 東欧の国々

旅行期間=一九六七年八月十九日〜八月三十日
総走行キロ=三八二一キロ

断わられたソ連入国

自動車とモーターサイクルではどこが違う

 ヘルシンキの澄みきった夏の空は、緑の木々と入りくんだ入江が調和して美しい。ヘルシンキから共産諸国へはいるため準備に取りかかった。
 唯一の難関はソビエトである。町の中心に近い森に囲まれたソビエト大使館へ行って入国ビザの申請をした。ところが係り員にモーターサイクルで単独でソビエトに入国することは認めていないと断わられた。
 予想はしていたことだった。スイスのジュネーブとスウェーデンのストックホルムで共産国への入国は調べておいたが、二回ともモーターサイクルでの単独入国は出来ないといわれていた。
 そのときはあきらめがつかなかった。実際にヘルシンキへ行けば、可能性があるかもしれないというわずかな期待をかけてきたのだが、やはり行けないとなると残念でならなかった。ソビエトへの入国はバスか、汽車か、飛行機か、または自動車で決められたコースを走る以外方法はないのだ。自動車とモーターサイクルは同じ乗り物だが、モーターサイクルは小さ過ぎて監視の目が行きとどかないというのだ。
 ソビエトがだめとなるとポーランドからである。幸いヘルシンキからポーランドのグダンスクまでポーランドの石炭船がかよっていた。入国も簡単である。観光ビザとなるとホテルの予約、一日何ドルという定められた金額を前もって両替えしなければならない。
 ところが、通過ビザはめんどうなことはまったくいらない。ただグダンスクから次の国へ通過するという期間に余裕を持たせて最高三日間しか滞在できない。通過ビザでポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアと東欧六カ国のビザをとった。ユーゴスラビアは東欧ながらさらに入国は簡単でビザはいらず、国境で簡単な手続きをすればよいことがわかった。

ポーランドの旅

税関吏の闇ドル屋に驚く

 ヘルシンキで世話になったヤマハ代理店、フォルスボンさん一家に送られて、ポーランドの石炭船に乗り込んだのは八月十七日のことだった。石炭の粉塵で黒ずんだ三千トンの船は、モーターサイクルと私を乗せてバルト海を一路グダンスクへと進んで行った。
 ポーランドの名物は強いウォッカである。彼らはヴォトカという。夜になるとさそわれて小さな船室でウォッカを飲んだが、からだの大きい船員たちはよく飲む。彼らがいかに酒に強いかは中の一人がこんなことをいって教えてくれた。
 「ポーランドでは、半リットルのウォッカを三人で囲んで、三人のうち、二人が飲まないで一人があけてしまったとしても、飲んだうちにははいらない」ということだった。
 二日間の船旅の後、黒ずんだビルと黒ずんだクレーンと、重くるしい外観を呈したグダンスクの港に到着した。
 午前八時、共産圏はじめての税関吏がやってきた。用紙にモーターサイクル、カメラの番号、持ち金の金額を書かされる。荷物は別に何一つ検査しようとはしない。共産国とはいえ、ソビエトをのぞいた東欧諸国は旅行者に対し丁重である。
 何を思ったか税関吏はドルを交換してやろうという。「実際に銀行で両替えすると一ドルは二十四ゾッピだが、一ドル七十二ゾッピでどうだい」これには驚いた。税官吏が闇ドル屋なのだ。そのうえ定められたルートより三倍もよいのだ。のどから手が出るほど替えたかったが、最初からルール違反では共産圏の旅はうまくいくものではないと自分にいいきかせ、断わった。

のんびりしたガソリンスタンド

 モーターサイクルは石炭専用の大きなショベルクレーンにロープをかけて岸壁に下ろされた。いよいよ共産圏の旅のはじまりである。線路を渡って大きな石をひいたものすごい道をグダンスクの町へ。くすんだこげ茶色のレンガ建ての家々、道はどこも石畳だ。市電を待っている人々。町のあちこちの店先で人が列を作って待っている。町の中を走る自動車の数は少ない。ポーランド製のほか、ソ連製の自動車が数多く見られる。ああ共産圏にはいったかと改めて実感がわいた。
 町かどにある売店で絵葉書を買ったが、くすんだ色はまるで十年前に仕入れたごとく思えた。タバコも同じようにひどい。セロファンなど使わず、巻き紙が古いうえ箱もくすんでいるのだ。名は「エクストラ」といった。
 町の出口でガソリンスタンドへ立ち寄る。ワルシャワまで行く途中、何キロおきにスタンドがあるか想像もつかない。まずは満タンにしなければならないのだ。客が来れば人が出て来てガソリンを入れてくれるのが当たり前と思っていたがそうではない。ドイツ語で「ガソリンをくれ!」とどなると、中から「待て!」という返事がもどってきた。タンクローリーからガソリンを移し終わるまで待っていろというのだ。
 そのうち三台の自動車、二台のヤワのモーターサイクルが私の後ろに並んだ。ガソリンを移し終わると、吸い終わるまで待てという。待っている人々は何もいわず、めずらしそうに私のモーターサイクルを囲んで見ている。
 ガソリンを満タンにして、一路首都ワルシャワへ向かった。道は町を離れるとアスファルトに変わる。路面は波があり悪い。自動車が少なく、モーターサイクル、自転車、歩行者が多い。モーターサイクルはチェコ製のヤワが大もてだ。どんな人でもヘルメット着用である。スカートの女性も、おとうさんの後ろにしがみついている小さな子供も、モーターサイクルにまたがっている人はみんなヘルメットをかぶっている。路面が荒らいので八十〜九十キロに速度をおさえて走るが、それでも他の車より、はるかに速い。ほとんどの車は七十キロ以下で走っている。
 町、村にはいると人に気をつけなければならない。昼間から町のあちこちで、人が集まって何やらおしゃべりである。町並みはきたなく掃除はいきとどいていない。若い人の服装だけは似合わず派手でモダンである。人が急に飛び出してくることもあった。どこでも見るガチョウを引きそうになったこともあった。道は町にはいると必ず石畳の悪路だが、町を出るとアスファルトになり、並木が道をかこって木のトンネルを走るようだ。ほし草を積んだ馬がのんびりと行く、トラクターも見かけるが、まだ家畜の力は大きい。

交通違反をしたのに、白バイにキャンプ場まで案内してもらう

 ワルシャワから東ドイツまでは近い距離だが、まだ二日間の余裕があった。ワルシャワのキャンプでいっしょだったモペット旅行者に「ポーランドへきた以上、古いクラカオの町は見なければ」といわれるままに、さらに東へと足をのばした。
 雨の中をクラカオへ向かった。道路は前日よりよくなり、ヤワのモーターサイクルが相変わらず多い。途中昼食をとったとき、ヤワに乗った六人の男女のグループに出会った。みんなジーパンにヤッケ、ヘルメットをかぶり、かっこいい若者たちだ。
 日本製モーターサイクルを知ってはいるが、見るのが初めてという彼らは、目を皿のようにして見ている。モノコック、単気筒の自分たちのモーターサイクルに比べ、パイプフレーム、二気筒のヤマハは彼らの夢を満足させるものであり、二つのキャブレターを見つけたとき、あたかもレーサーであるかの如く目をかがやかせていた。
 2サイクル、オイルインジェクションは言葉が通じないため、はたしてわかってもらえたか疑問だ。女性はモーターサイクルより、私の持ち物が気がかりのようだ。気のきいた物が手にはいらないためだ。マン島で無理をして買ったエリ巻きをゆずってくれとしきりにせがまれる。
 クラカオから、案内地図にはまったく書かれていない道路を東ドイツへ向かった。地図にはないが大きな工業都市が続いている。旅行者が通ってよいコースかどうか、警官にでもつかまるのではないかと思いながらも、走り続けた。カオビセの町に着いて町の中心のロータリーでふらふらしていると、警官につかまってしまった。サインを見ながら、キャンプ場をさがしていただけだと片言の独語と英語でいったがわかってもらえない。そこへ白バイが通りかかって、私の「キャンピング」だけはどうやら通じたらしく、白バイがわざわざ宿泊所まで案内してくれた。交通違反をしたうえ、宿泊所まで案内しなければならないとは、やっかいな旅行者だと思ったろう。

危うくセーフ! ビザの切れる二時間半前に東独国境到着

 そんな気ままな旅をしていたら国境を間違ってしまった。スイスで手に入れた地図では、たしかに東ベルリンを通って西ベルリンへ行くはずの国境だったが、銃をかまえた兵隊においかえされ、夜の田舎道を走って東ベルリンとの国境フランクフルトに到着したのは、ビザの切れる二時間半前だった。観光コースからはずれて気まぐれの旅も東欧ではゆるされることだとわかった。これがソビエトだったらそれこそ大変なことになるだろう。

ヤワ研究所訪問

 自由の孤島西ベルリンへ立ち寄った後、再び東ドイツのアウトバーンを走って、ドレスデンからチェコスロバキアの首都プラハにはいった。そこでたまたまヤワ研究所の見学をする機会にめぐまれた。キャンプ場の係り員と話していて、私がヤワ工場へ行って見たいと話すとすぐ電話をして許可取ってくれたのだ。工場は見せることは出来ないが研究所を案内しましょうという返事だった。
 プラハの郊外にある研究所へ日本製のヤマハで乗り込んで行った。赤いジュウタンをしきつめた広い部屋の正面の机に座った白髪のヨセフ所長は遠来の客をにこやかに迎えてくれた。
 モーターサイクル生産では競争相手である日本のモーターサイクルについて、よく調査をしており、称賛をわすれなかった。生産台数では日本に比べ、はるかに少ないが共産諸国はもちろん、西欧から遠くアメリカ市場にも知れわたっている。ヨセフ氏は、
「日本製がスポーツタイプをいくので、ヤワとしては実用車で輸出を伸ばしていきたい」といって現状を次のように語った。
① 人員 六千人(工場)三百人(研究所)
② 年産 十万台
③ 輸出 九十%
④ 海外の技術輸出
インド、トルコ、エジプトに工場がある。イラクに工場建設の計画がある。
⑤ オイルインジェクション
 十数年前一度計画をしたが、成功せず、現在また計画中である。
 研究所は各種のテスト装置があり、すべてこの研究所で発案されたアイデアによるものだ。三重のガラス窓の中でエンジンが大きな音をたててまわっていた。リアクッション、フレーム、バイブレーションテスト等々、活気があり意欲のあるところを見せられた。
 ポーランドで行なわれる六日間トライアルのマシンのテスト中であった。この研究所では各種試験のほか、工場レーサーの製作を行なっている。
 見学を終えてヨセフ氏の部屋にもどってからたずねた。
 「あなたの国のほか共産国では、国内における競争がありませんね。販売における競争は技術の発展を早くすることと思いますが、共産主義では、不利な点があるのではないですか」
ヨセフ氏は「もちろん国内競争はありませんが、外国での競争があるから、同じことです」と答えた。
 ヨセフ氏は記念にヤワのマークのはいったバッジと帽子を私に手渡し、堅い握手をしながら「これから先、じゅう分気をつけて無事日本へ帰られることをお祈りしています」といって、私を送ってくれた。

共産圏のモーターサイクルと自動車

 プラハ滞在中もう一つ収穫があった。町を歩いていると、ふと町角の新聞屋で日の丸が目に止まった。さっそく一部買い入れて目を通すと二ページにわたって日本の自動車工業について紹介されている。文章は理解できないが、数字などから日本の自動車産業が、アメリカに次いで世界第二位にのし上がったという記事であることはわかった。
 日本を出発するとき、たしかに英国をぬいて第三位だったと思ったが、共産国でこんなことを知ろうとはまったく予期しなかった。日本車の写真がいくつか掲載されていたが、型が新しく変わって自分の旅が長いのを改めて感じた。
 その新聞の出版社を歩き回って訪ねあてた。小さなビルの二階に十人ほどの社員が、その新聞の製作にあたっていた。
 共産諸国のモーターサイクルと、自動車生産状況を教えてもらおうと訪ねたのだが、そこまでまとまったデータもなくただ編集長の知っている範囲内でおしえてもらった。
 モーターサイクルについてはチェコスロバキアのヤワ、CZとポバイスのスクーターがある。東独ではMZ、スイムプソン、ソ連のイジュ、ポーランドのSHL等がある。
 自動車については、ソ連のモスクビッチ、ボルガ、ズイル、ザポロジェット、チアイカ。ポーランドのワルシャバ、スイレナ。チェコのスコダ、タトラ。東ドイツのバルトブルグ、トラバント。ほかにイタリアのフイアットがユーゴスラビア、ポーランドに進出しており、近いうちにソ連とも技術提携を結ぶ計画を進めている。
 このうち、チェコのヤワ、スコダとソ連のモスクビッチは相当数が西欧へ輸出されている。最近モデルチェンジを行なった両車ともスタイルは一変してモダンになっている。
 フィンランドのユーザーの話では、耐久性がなく故障が多いという。ただ価格が安いのが魅力であり、西欧や日本製の車と比べ、三分の二以下の値段である。
 共産圏の各国内で技術競争を行なわない限り、性能の差は縮まらないという印象を受けた。


第七章 アフリカ編

旅行期日=一九六七年九月二十三日〜十月二十五日
総走行キロ=七九二〇キロ

緑のないモロッコ

 ジブラルタル海峡を、アルジェシラスからセウタへと渡ってアフリカの旅が始まった。ノッペリした山々、緑がまったくない。ジェラバ(白い服)を着た男たち、ルゼム(ベール)をかぶった女たちを見ると、いよいよアフリカ、と改めてふんどしを締めなおした。
 ロバにチョコンとすわって木のない広々とした丘を行く男、暑いので頭にヌカ袋をのせている。ときどき現われる家も真っ白で四角い。
 道路は狭く、デコボコが多い、舗装だけはしてある。暑い! だがここちよくモーターサイクルは走り続ける。のんびりと羊、牛、山羊を見張るモロッコの子供たちに会う。大きな草を積んだロバが荒らい呼吸をしながら行く。ロバの腹の下の影になったところに犬が歩いている。ロバは頭をたれ、犬も同じように頭をたれている。
 タンジールからフェスへ向かった。まったく木のない所だ。泥をかためた農家の周囲にサボテンがはえている。彼らはサボテンの実を大切な食料にする。フェスのメジナは中世以前の感があった。そこで安宿を見つけ三泊した後、アルジェリアへ向かった。

砂漠のツーリング

サハラ砂漠のオアシスの町ブサダへ

 アルジェに着くと、すぐにヤマハ代理店のブジリさんを訪ねた。口ひげをはやした目の大きなブジリさんは、紹介状も何も持たない私を大歓迎してくれた。
 二、三日のはずが、十日間も腰をおろしてしまった。自分のモーターサイクルの整備が終わると、彼らといっしょになって修理にあずかったモーターサイクルを直していた。
 日曜日、代理店の仲間たちと、サハラ砂漠を三百キロ中へはいったオアシスの町ブサダへ遊びに行くことになった。
 ヤマハ四台に、BMWが一台の計五台である。アルジェリアにはカミナリ族はいない。五台のモーターサイクルは町の中をカミナリのように走り出た。アルジェから三十キロほどは平らなブドウ畑の続く道を走った。
 ブドウ畑が切れると山にはいった。急カーブ、急な上り、深い谷の細く路面の悪い道だ。その峠は高かった。峠を越え、急坂を下り切ると今度は平ら、サハラ砂漠の入り口だ。小さな町をいくつか通るが、ものすごい人だかりがする。子供が実に多い。ターバンの男たち、生活はまずしい。
 いよいよ砂漠にはいる。暑く真平らな砂漠の中を荒らいアスファルトが一本出ている。アクセルはただ全開にして、百三十キロ前後の速度で走る。モーターサイクルの切る風は暑く、逆に皮ジャンが必要になるほどだ。
 ブサダに着いたのはもう夕刻だった。砂漠の中のオアシスは大きく、観光地になっていてホテルがいくつもある。今晩はブサダで、一番立派なホテルに泊まることになった。フランスの植民地であったので、ほとんどがフランス人観光客。観光客たちはもちろん砂漠をひとっ飛びに首都アルジェから飛行機でくるのだ。

〽金と銀との鞍おいて……右から2人目が著者。ブサダにて
〽金と銀との鞍おいて……右から2人目が著者。ブサダにて

町で女の人を見ることのできないブサダ

 夜のブサダは、ターバンに白い服を着た男たちが道ばたで夕すずみである。子供たちがその間を走り回っている。女の人の姿はただ一人たりとも見ることは出来ない。
 砂漠の朝は清々しい。ロバ、荷馬車がせわしく行きかう。朝食はカフェーで、カフェオレ(コーヒー牛乳)とうどん粉をあげたものだ。どの店も満員である。
 町を出て砂漠へ行って見たが、ブサダから先のサハラ砂漠は想像もつかない土地である。どこまで続くかわからない砂漠を、しばらくながめた後、町の近くにあったオアシスでひと泳ぎすることになった。ブジリも、アゼディンもスーダハメッドも、みんなが、みんなパンツ一枚になると真っ青にすんだ冷たい水の中ではしゃぎまわった。
 昼は相当暑くなった。日影は大した暑さではないが、日光の直射はものすごい。十人でクスクスを食べる。大きな洗面器に二はいだ。クスクスはアラブ独特の料理で、アラブでもここアルジェリア、モロッコ、チュニジアの北アフリカでよく食べられる。
 小麦をブラジルのマンジョカ(タライモの粉)の粉ぐらいにしたものに、ニンジン、大根、パプリカ、羊の肉など好きな物をスープにしてかけるのである。
 今日は羊の肉のかわりにウサギの肉を使った。冷たいビールを飲み、うまいメロンがデザートに出た。満腹になって、二時にブサダを出発、五台のモーターサイクルは一路アルジェへともどった。

あぶなかったチュニジア入国

入国拒否! パスポートに記入されていなかったチュニジア国名

 アルジェリアの海岸線はきれいな緑でおおわれている。アルジェリアには、八日間のビザ期限だったが、ブジリさんたちがあまり強く引き止めるので十四日間にもなったが、移民官は何もいわずに出国させてくれた。
 チュニジアはビザは不要と安心しきって、移民官にパスポートを差し出した。しばらくパスポートを見て入国は出来ませんという。理由は訪問先の国名の中にチュニジアの国名がはいっていないからということだった。
 「そんなことはない!」と私は七十カ国近い国名の中からチュニジアを見つけ出そうとした。
 「ない!」
 そんなはずはない。二年前立てた計画ではチュニジアは確かにはいっていた。チュニジアを通らずにアルジェリアからリビアへ行くのは無理だ。何かの手落ちでぬけてしまったのだ。すでに三冊目のパスポートを使っていた。最初のパスポートにも「チュニジア」の国名はない。二年以上も持ち歩いて気がつかなかったとは歯ぎしりした。
 「国名がなければ入れることは出来ません。アルジェまでもどって日本大使館へ行き、国名の追加をして来て下さい」と二人の移民官はいう。
 そうあっさりいうが往復に千五百キロあり、「チュニジア」と一語パスポートに書いてもらうだけで、ガソリン代だけでもひど過ぎる。
 私は自分の旅の趣旨を説明し、「手落ちによるものだから入れてくれ、チュニスの日本大使館へ電話連絡してくれ」とたのんだ。チュニスまではわずか二百キロの道のりだ。私の再三の願いに対して片方の移民官がどなった。
 「アルジェへ行って国名を追加してこい! ここはチュニジアだ。国名がない限り、一秒たりともチュニジアにはいられない。さあ荷物を持って出て行け!」と私のカバンを持ち、私の肩を引っぱって表へ出そうとする。私はその手を振りはらってどなりかえした。
 「私はリビアへ向かうだけなんだ。入れてくれるまで動くものか!」
 彼は出て行き、英語のわからないもう一人の移民官も奥へひっこんだ。きたないベンチに腰かけ、何か手はないかと考える。パスポートを何回も見直すが、チュニジアの文字が浮かび上がってくるはずもない。その間にも数人が国境を通過して行った。そのたびに移民官は「出て行け!」という。

入国できるまではすわりこむ覚悟……だが日は暮れてきた

 三時間が過ぎた。日がとっぷりとくれた。アルジェへもどれば、二日以上かかるし、ガソリン代も大きい。一晩ぐらいねばり通しても価値は十分にある。通してくれるまで動かない覚悟を決めた。移民官は私を持てあまして物静かな態度でいった。
 「外務省にある移民局本部へ電話するから、その返事に従ってくれ」彼らに出来ることはそれくらいなものなのだ。またそれしかなかった。
 私は返事をにごらせた。パスポートに国名のない者を本部でゆるすだろうか。移民官はすでに電話をつないでいた。「さて本部で断わって来たらどうしよう」と思っている間に移民官はパスポートを出せという。
 ポン! と入国スタンプをくれる。ねばりがいがあったのだ。だがガンコな移民官だった。いや私の方がガンコだったのだ。

砂漠に降った雨

遊牧の民とラクダと砂漠

 チュニス、トリポリと警察署の横にある空地にテントをはらせてもらった。
 トリポリの町の出口はナツメヤシ、サボテンが数キロにわたって植えられている。彼らにとって重要な食糧なのだ。遊牧の民が羊を連れラクダ、ロバに荷車を引かせて砂漠を行く。テントを砂漠の中に張っている遊牧民族もときどき見かける。何を食べているのだろうか? 水はあるのだろうか? 人ごとながら心配になる。
 夜になるとラクダにぶつからないように気をつけなければならない。道路わきで休んでいるラクダはモーターサイクルの排気音に驚いて走り出す。ヘッドライトに目がくらんで、どちらへ走り出すかわからない。ラクダの飛び出しで何度も急ブレーキをかけねばならなかった。
 砂もあぶない。風で飛ばされた砂が、ところどころ、深く路面をおおった所がある。速度を落とさず、つっ込んだらモーターサイクルはひとたまりもない。
 どこまでいっても水平線のかなたまで何もないという気分はよいものだ。トリポリから約七百キロリビア砂漠を走り続けると、高い門が見えて来た。ここはトリポリとベンガジの行政区分点なのだ。五人の警官が任務についていた。彼らは政治的にも文化的にも、すべての面でこの地点が世界中で最も重要であるが如くいかめしかった。

ウイスキーグラス一杯のシャイ(紅茶)

 夜の十一時だ。パスポートを見せ終わると、私はまた小屋の近くで寝ることにした。
 町から遠く遠く離れたここはまったく静かで不思議な世界に見えた。パジャマを着て目やにをいっぱいためた一人が、古いラジオをかけ出した。ガーガーそれは騒音にひとしかった。
 彼らにとってシャイ(紅茶)を飲むのは一番楽しいひとときだ。バケツに水をくんできて鉄の小さなやかんを洗う。小さなグラスを洗う。その洗い水をおぼんにあけて、おぼんを洗う。水は貴重なのだ。空かんを利用したかんに炭火をおこし、湯をわかす。茶をたんまり入れる。そしてぐつぐつ煮立てる。
 砂の上の寝袋にもぐり込んでその一つ一つの動作をながめていた。シャイをすすめられたので起き出して飲んだが、ウイスキーグラスのように小さなグラスにニガい濃いシャイだった。雲一つないきれいな星空を見上げながら、眠りについた。

アフリカ縦断を断念

 夜中に顔に当たる雨で目をさまされた。ときすでにおそく寝袋を通して全身びしょぬれになってしまっていた。まさかこんな砂漠の中で雨とは思いもよらなかった。この雨が北アフリカでただ一回の雨だった。
 砂漠はさらに続いた。ベンガジは、トリポリを出てから千四百キロ走ってたどりついた町だ。青い海、青い空、だが町はほこりだらけであった。ベンガジをぬけて、アポロニアに向かう。さらに美しい海岸線をエジプトへ。予定では再度アフリカ縦断の期待をかけていたが、またしてもはばまれてしまった。エジプトからスーダンへの入国が出来ないのだ。スーダン北部の紛争のためエジプトからの南下は、飛行機に限られていた。ふところのとぼしい私にとってはあきらめなければならないことだ。アフリカ縦断の夢をすてて、中近東へ向かうことに決めた。


第八章 中近東・アジア編

旅行期間=一九六七年十月二十六日〜六八年一月六日
総走行キロ=一二五六三キロ

二日間、ヤマハYDSⅢの整備

 エジプトのアレクサンドリアから船に乗って一九六七年十月二十五日、アジア大陸の西の端に位置しているレバノンに到着した。これから陸続きで走れば、中近東の国々を通ってインドまで行けるのだ。インドまで行けば、日本がすぐ間近だ。そう思うと心がはずんで気がせいた。
 何はともあれ、一番大切な足となるモーターサイクルを、レバノン市内にあるヤマハ代理店に立ち寄って、二日間かけて整備をした。重い荷物を積んでよくここまで走ってくれたものだ。もう少しだから頑張ってくれよ、と声をかけずにはいられなかった。ここまでで、実に八万四千七百十二キロの距離を走っているのだ。地球を二周以上したことになる。

戦闘準備のヨルダン

フセイン国王のパレス前でのキャンプ断わられる

 商業国レバノンは、アラブ諸国では一番豊かだった。貿易自由港なので、世界各国の車がはいっており、その数も多い。ベイルートの町を出るとすぐ高い山を越える。ブドウ畑、リンゴ畑があり、農民が道にリンゴ、ブドウを並べて売っている。山道は急でだいぶ長く、ベイルートの町がはるかに見下ろせた。下りも急で長かったが、曲がりくねった道を百キロ前後で走りおりる。おり切ったところでパンクしてしまった。おりる途中だったらひとたまりもなかったと胸をなでおろした。
 ハゲ山の間を走って、シリアの首都ダマスカスへはいった。
 シリアからヨルダンの首都アンマンまでの道は、イスラエルと激しい戦闘のあったところだ。起伏のある砂漠の中に、兵隊が戦闘の準備についている。今にもイスラエル軍が攻撃してくるかのようだった。大型トラックが、砂漠の中に広範囲にわたって点々と一定間隔をおいて止めてあった。テントが張られ、高い部分には、高射砲がイスラエルの方向を向けてそなえられていた。
 町中にも兵隊は多く、各所にチェック・ポイントがある。異様な風態の私を、兵隊はあっけに取られて、声をかけるのも忘れて見ている。私は常に知らんぷりして通ることにしている。止まるとパスポートを見るのに待たされるからだ。三冊あるパスポートを一ページからたんねんに見るのだ。
 アンマンの町で、中心がわからずうろうろしていると、フセイン国王のパレス前に出た。銃を持った兵隊がいかめしく立っている。町の中心への行き方を聞いたが通じない。「ここへ泊めてくれないか!」と手ぶりで示すと、とんでもないという顔をしてあきれていた。町の中心はパレスから近かった。ケバケバした安っぽいネオンの多い町だ。谷になったへこみに中心街があり、家は山の上に向かって建てられている。四角い石づくりの家々が密集し、緑はほんのわずかだ。
 三階建ての小さな建物の三階が、ホテルになっている。安ホテルはどこでもこんなふうだ。二つのベッドがあり、片方のベッドが三百円、もう一つは誰かがきたら、泊めるのだそうだ。
 翌朝、町に太陽が昇ってこないうちに起き出してごみごみした町を出た。山を登るともう中心は見えず、密集した住宅街が街が山の上まで建っているのが見える。
 町を出ると、また昨日と同じ戦闘体制の風景が続く。イスラエルの飛行機が飛んできたら、ここは火を吹いて戦場と化すのだ。前の戦争では、ここも戦場になり、コテンコテンにやられたという。

写真騷動

最初は軍事上の都合、そのうち汚ないところはダメだ

 アンマンから三十キロほど走ったろうか、小さな町のマーケットにはいった。アラブの服も国によって少しずつ異なっている。ヨルダンの服装を写真に撮るには、市場のように人の沢山集まるところがよい。イチヂク売り、サンドイッチ売り、果実売り、野菜売り、カゴを下げた女性も沢山いる。真っ白いきれいな服装だ。サンドイッチ売りに写真を撮らせてくれというと、コックリうなづいた。パン屋とまわりに女性を入れれば、なかなかよい写真がとれるとカメラを構えた。
 すると、ぞろぞろ後ろからついてきた人の中から、三人ほどが「ここは写真をとってはいけないんだ!」と前に立ちふさがった。
 「なぜだい?」私は聞き返した。
 「巡査につかまって、牢屋行きさ」という。
 「いや、そんなことは聞いていない。なぜ写真を撮ってはいけないんだ」
 「君がここで撮った写真を、イスラエルや、アメリカ、イギリスへ行ってみせるのだろう」
 「僕は日本人の旅行者だ。そんなことはしないよ。たとえ見せたって、君たちが何を損するんだい」と聞いた。
 彼らは警察へ行こうといいだした。そばの警察署まで行くが、黒山の人だかりがついてきた。一人が呼びにはいって行った。表に顔をだしてきた警官は、サッと顔色を変えて、私にではなく、集団に向かって、自分のベルトをはずして気違いのようにベルトを振りまわした。私には、彼はまったく気違いに見えた。頭を振って満身の力をこめて、がむしゃらなのである。人々はちりじりになって逃げていった。
 その警官に手をだして握手を求めると、今までの彼とは別人のように平静な顔に変わった。改めて写真をとってもよいかと聞くが通じない。警官はそっちのけにしてさっきの三人がいった。
 「こんなきたないところを写して、日本へ帰って何ていって見せるんだ」
 「そんなこと問題じゃない。日本とちがう。大変ちがうんだ。服装にしたって、サンドイッチ売りなんか、別にきたなくなんかないじゃないか。女の人の服装も実にきれいじゃないか」
 彼らが私をとがめる方向が変わった。はじめは、戦争状態だからということで、今はきたないところだから写してはいけないということにかわった。政府が写真の撮影を禁止しているのは軍事関係である。私のうつそうとしたマーケットは、戦争とはまったく関係のないところだった。しかし、もしうつしたら、集団に何をされるかわからない様子だった。戦争状態にある彼らの感情は、決して普通の状態ではないのだ。

砂嵐とアリに見舞われた砂漠のテント

急変する砂漠の気候

 国境ルトバの近くで砂漠の中にテントを張った。明日はバクダッドにはいれると思いながら、星明りをたよりに、テントを張っていると、手の掌をチクっと何かにさされた。一瞬ハッとした。サソリだ!
 手の掌を見ると、何かわからないが、虫がかみついて離れない。もうあわててもしようがない。マッチをすって調べてホッとした。ただの大きなアリだった。
 砂漠の天候は急変する。テントを張ったときは静かな夜だったのに、ぐっすり眠りについた夜中に、すごい突風で目がさめた。まるでひとつのかたまりのようにやってきた。足の方のテント止めのクイがぬけ、テントが大きくパタパタとなりだした。一瞬おそかったらテントはふっ飛ばされていただろう。とっさに、テントの端をつかんで、からだの下に巻き込んだ。これでもう身動きがとれなくなってしまった。砂が顔といわず、寝袋の中といわず容赦なく吹きつけてくる。うつぶせになって目をとじ、必死でテントをおさえながら、風のやむのを祈るばかりだ。こんな突風にあうのは初めてだった。一時間ほどたつと、風は嘘のようにぴったりとやんでしまった。まったく静かだ。砂をはらいテントを直して、また寝心地のよい寝袋にもぐり込んだ。
 翌朝起きてみると、テントの横に何と大きなアリの巣があった。昨晩は突風ばかりか、寝袋にもぐり込んできて、チクリチクリやるアリにも一晩中悩まされた。

水より安いガソリン代、豊かなクウェート

 暑いバクダッドから石油王国クウェートへと旅は続いた。道路はイラクでも、路面は悪いが舗装は完備している。クウェートにはいったら、立派なアメリカ並みの道が砂漠の中を走っている。車も大きなアメリカ車が多い。ガソリンは一ガロン六十円だから、一リッター十五円だ。水より安いとは大げさではない。クウェートからイランのテヘランへ向かう。暑さはどこへやらイラン高原は寒い。寒いはずである。周囲の山々には雪がある。人々の服装は黒く厚手のものに変わった。

イランで会ったジョン

寒さにこごえながら暗闇を突っ走る

 十一月十日テヘランの町を通過してメシャドへ向かう。ハゲ山でまったく木がない。
 バス、トラックの交通が割合い多い道だ。ことし三度目の冬だ。いまにも雪が降り出しそうな天気だ。低くたれた雲から冷たい雨が落ちてきた。雪は少し上の山の中腹まで降っている。山を割ってトンネルがときどきある。
 電気はなく、トンネルにはいると一瞬ヘッドライトの光だけでは真っ暗になる。百キロ近くそんな山道を行くと、カスピ海沿岸のたいらな農村地帯にはいる。緑におおわれたこの地域は、重要なイランの穀倉地帯だ。カスピ海は曇った中にわずかに見えた。ゴルガンから三百キロほどソ連のトゥルメン共和国にそってボジヌルドまで走る。ボジヌルドまでは、緑に囲まれた舗装道路だったが、その先は真っ暗な砂利のひどい登り道になった。森林のうっそうとした道路は、いつしか砂漠に変わった。アラブの象徴の月と星が、冷たい夜空をおおっていた。
 寒い。走れども走れども村はない。寒い夜のツーリングは、明りがなおさら恋しい。車もまったくこない。もう二時間も走ったのに、人っこ一人出会わないとは、道でも間違えたのだろうか。心細さと寂しさをまぎらわすために、大きな声をだしてみたり、何かつぶやいてみたりした。最後の明りを過ぎてから百五十キロほど走ったろうか。
 はるか遠くの山の間に明りが見えてきた。かすかに見える光が、元気を百倍にもしてくれた。暖かい飲み物はあるだろうか、何か食べ物もあるだろうか、と大きな期待がわく。小さな明りは少しずつ近づいてきた。なかなか到達しない。じれったい。ガタガタ道をもうがむしゃらに飛ばす。小さな村にはいった。道の両側に十軒ほどの家があり、一軒は食堂になっていて、長距離バスの休憩所になっている。
 冷たさでからだのふるえがどうしても止まらない。ガランとした食堂でチャイをもらいホッと一息つく。食堂の親父に泊まるところがあるかと尋ねると、一泊二十リヤル(九十五円)で泊めようという。二十リヤルなら安い。食堂の裏にできた八畳ほどの小屋には、コンクリートの上にもう二人の男が毛布にくるまって寝ていた。荷物を横におき、皮ズボンをはいたまま、寝袋にもぐり込んだ。翌日、日が昇ると同時に休憩所をでた。すがすがしい朝だが、こごえるように寒い。

ジョンといっしょにメシャドまで

 百キロほど砂利道を走ると、ガソリンスタンドが現われた。ボジヌルド以来のガソリンスタンドだった。一台のBMWが目に止まった。泥まみれになった男がパンクを直している。ナンバーはドイツナンバーだった。彼はイギリス人で、ドイツでBMWを買って、ここまで旅をしてきたのだ。長身で金髪のイギリス人は、ジョンといった。これからオーストラリアまで行って、働くのだという。
 互いにモーターサイクル好き同士。すぐに意気投合し、寂しい一人旅もしばらくはジョンと行動をともにすることになった。
 ガソリンを満タンにしたわれわれは、メシャドへと向かった。道は波状のデコボコで、厚く砂利がひかれている。砂利道は車輪を取られやすく、後車輪が右へ左へとすべる。この砂利道では、倍も大きいジョンのBMWより、荷物を沢山積み込んだ私のヤマハのほうが速かった。
 ジョンは大きなリックサックをガソリンタンクの上に乗せているため、後輪荷重が減り、後輪がすべって走れないのだ。急な上りはなくなり、気になるのはすれちがうとき、抜くときのトラック、バスのあげる泥煙りだけだ。二台のモーターサイクルは並んで走った。モーターサイクルでさえもうもうたる泥煙りがたつ。今日は朝早くから走っても、四百キロしか距離をかせげなかった。夕ぐれのメシャドが遠くに見えはじめると、道はアスファルトに変わった。
 モーターサイクルを止め、後ろの夕日を見ようとしたとき、お互いに顔を合わせて笑いだした。二人とも、頭の先から足の先まで泥で真っ白なのだ。自分では今までまったく気がつかなかった。お互いに、相手のひどいかっこうを見て、自分のあわれな姿を想像した。そしてハラをかかえて笑った。ゴーグルを通して泥は侵入し、目には豆つぶほどもある泥のかたまりがついている。手袋をはずし、お互いの健闘を祝福しながら、ほこりを落としあった。

旅は道連れ……メシャドまでの楽しかった2日間
旅は道連れ……メシャドまでの楽しかった2日間

ヘラートでジョンと別れを惜しむ

 ジョンとの旅二日目は、メシャドからアフガニスタンの西の端ヘラートまでだった。前日と同じ砂利道を六十キロのスピードで走る。暗くなってからイランとアフガニスタンの国境を越えた。ヘラートには旅行者用の安いホテルがある。そこには十数人のヨーロッパ人と、二人の日本人旅行者が泊まっていた。中近東、アジアを旅する者はほとんどがここアフガニスタンを通る。東のインド、西のイランで幾つかのコースに広がっている道は、ここアフガニスタンで一本道になるので、旅行者が集まるのだ。
 一泊百円の宿は、ベッドが二つあり、かざりはまったくないが、きれいに掃除されていた。重い荷物を運び込むと、宿屋づきの食堂へ行って残り物をもらう。もう十時をまわって食堂は終わっていた。米と羊の肉をもらって水を飲んだ。この水がいけなかった。
 疲れていたので、ぐっすり寝込んでしまったが、翌日目がさめると、ジョンがゲンナリして目をぎょろつかせている。
 「昨晩は便所へ行きっぱなしだったよ」とやつれはてている。
 「水があたったのか」とすぐわかった。夕食のときに飲んだコップの水は、自分でも大丈夫かなと思いながらも、のどの乾きで飲んでしまった。しかしやっぱりあれにやられたか。ジョンがやられたことは、自分がやられたのと同じように苦々しい。
 「薬は飲んだけどききやしない。でももう大丈夫だ。やっとおさまってきたよ」そういって、しばらくたつと、ジョンはようやく眠りについたようだった。
 昼にはジョンも起きた。二人分の昼食を部屋に持っていくが、ジョンは下痢はおさまったけれど、食欲はなかった。ジョンはもう大丈夫だ。けれど二、三日ここで休んでいくという。私は先へ行くことにする。どうせ同じコースを行くのだから、どこかでまた会えるだろう。再会を約して握手をかわし、暗くなる前にヘラートを出発した。

麻薬、麻薬、麻薬…

ハシシー(マリファナ)中毒者の天国

 交通量のまったくない見事な砂漠の道を飛ばす。岩山をぬって走る。ときどき丸屋根の泥で作った小さな家があるだけだ。カンダハールまで五百七十キロの間には町はまったくない。半分も行かないうちに暗くなった。岩山はいつしか真平らな砂漠の走りやすい道と変わった。
 ヘラートを先に出た英国人のジープをぬいて、カンダハールへと近づく。遠くに星をちりばめたように町が見えて来たところで、予備タンクからガソリンをタンクへ移す。ガソリン切れを心配しノロノロ運転でカンダハールへはいった。もう町は寝しずまっていた。
 宿屋をたたきおこして、二軒目で空部屋を見つけた。目をこすりながら出て来た番人は石のすり減った階段を上がって部屋へ案内してくれた。二人のヒッチハイカーが、寝袋にはいってぐっすり眠っていた。
 番人は百円也の宿賃を受け取ると、廊下にある木のベッドに私がくる前と同じように寝ころんだ。
 階下の洗面所で、歯をみがいていると小がらな黒髪の男がおりてきた。話しているうちに彼がニューヨークからきたことはわかったが、その顔つきから、プエルトリコあたりから移住したスペイン系のように思えた。彼は注射器を洗っている。「はてなぜ注射器なんか持っているのだろう」そんなことを思って歯をみがいていると、会話がちょっととだえた。洗い終わった男は、
 「ハシシー吸ったことあるかい?」と聞く。
 「ないね」
 「おれの部屋に遊びにこいよ。面白い奴ばかりだ」無気味に笑って階段を上がって行った。ハシシーの話は聞いていた。ハシシーは、麻薬の一種で、アフガニスタン、チベットは本場である。欧米の麻薬患者の一部が、安い麻薬を求めて東へ東へと流れてきて、アフガニスタン、チベットで天国を見つけた気分になっているのだ。南欧や北アフリカでは、マリファナといってカスバなどで売っていた。

ハシシーをすすめられる

 ひょっとすると、あの男の部屋は、麻薬患者の住家じゃないだろうか。それなら一見する価値がありそうだ。そう思って自分の部屋の前の黒髪の男がはいっていった部屋をノックした。
 「カムイン!」と中から返事がかえってきた。木の扉を開くと一瞬ぎくっとした。これは生きている人間の顔ではない。目ばかりぎょろぎょろさせた五人の男の視線が集まった。さっきの男が「カムイン!」ともう一度いう。部屋にはいりながら、「グドイブニング!」というと、返事もせず、だが安心した顔つきにもどった。
 みんなベッドに横になって、目をぎょろつかせ、顔はほお骨が出て青白く、セーターから出ている腕は骨と皮のようだ。部屋にはハシシー独特の臭いがこびりついていた。
 一人が「吸えよ!」といって水ギセルにつめたハシシーをさし出した。普通はタバコにまぜて吸ったりするのだが、ここでは安いためか、ハシシーだけを吸う。ビニール袋にいっぱいのハシシーを持っている。私は水ギセルを受け取り吸ってみた。二度ほど普通のタバコを吸う調子で吸って見たが、別にどうということはなかった。口の中にいやな臭いが残るだけだ。
 彼らの吸い方はものすごかった。吸ったハシシーの煙は口の中に止めず、そのまま全部肺へ通してしまうのだ。
 “ああ! あんなふうに吸うのか、あれじゃタバコだってブッ倒れるだろうから、ハシシーじゃとても真似はできない”とあきらめた。
 注射器の使い道がわかった。ドジョウヒゲの男が黒髪の男から注射器を受け取って、何やら麻薬を入れている。アルコールをしめした綿で、細い腕をふいている。目もあてられないほど、腕には注射のあとが残っている。
 注射をされたドジョウヒゲの男は、目をつり上げ、人間とは思えないような顔つきをしている。いたさをこらえているのか、何かをこらえている顔つきだ。針をぬくと、今度はトロッとした顔つきになった。
 “金がなくなったら、どんなになるのだろうか。注射をするときのあの顔以上におそろしい顔で、麻薬を求めるのだ。麻薬、麻薬、麻薬……、彼らには、通ってきた自然の風景も人間も何もないにちがいない”
 そんなことを思いながら、長居は無用と早々に自分の部屋にもどり、眠りについた。

貧しい国インド

ヤマハと提携しているインドのモペット

 カブールから、シルクロードの難所カイバル峠をいっ気に登りきると、パキスタンである。
 盆地の暑い気候、パキスタンの道路もラホールを通って完全に舗装されている。
 カシミールの紛争で、不安定なパキスタン。インドの国境はさいわい通過することが出来た。貧困の国インドは、聞くと見るとでは、まったくちがっている。きたないという以上に、人々のまずしさが気のどくでならなかった。
 最初の町ルデアナで、パールスクーターのカンティベヒル氏を訪ねた。彼はヤマハからエンジンを輸入してモペットを製造している。
 工場の入り口に出来た社長の家は、手入れのいきとどいた立派な家だった。町で、田舎で見かける普通のインド人たちは、やせて色は黒いが、彼はデップリ太ってあさ黒いいわゆる日本で見かけるインド人だ。
 カースト制度の残っているこの国では、金持ちと一般の人とはまるで別人種のようだ。
 社長の家には使用人が多数いた。床をふく下男は床しかふけず、洗たくをする女性は洗たくしか出来ない。みな定められた仕事しか出来ない。社長の弟サティシが工場を案内してくれたが大きな工場は活気に満ちていた。エンジン以外、ほぼすべてがインド製である。出来上がったモペットは、日本製に比べ、やはりちゃちである。完成品の輸入が出来ないインドでは、日本製エンジンを乗せたこのモペットは作る先から売れて行く。問題はエンジンの輸入台数を政府で限ってしまうため、思うように生産をふやすことは出来ない。
 サティシがいっていたが、一般工場の従業員はだいたい月給十三ドル(四千六百八十円)だそうだ。それでも一定の職業についている人はよい方なのだ。教育のある学校の先生の給料が十三ドルというから決して悪くない。

ヤマハと提携しているパールスクーター社訪問
ヤマハと提携しているパールスクーター社訪問

カースト制度とヒンズー教と人口四億と牛

 仕事を持たない人がいかに多いかは町を歩いただけでわかる。カースト制度のこびりついた、ヒンズー教にしばられた、人口四億以上をかかえているインドの将来はどうなるのだろう。
 インドは英国の植民地だったため、幹線道路は全部舗装がいきわたっている。ただ舗装が狭く、トラック一台が通れるだけの舗装だから、車とすれちがうときはこちらがアスファルトの上に残って、対抗車の外側をアスファルトの外に出させるか、もしくは、こちらが、アスファルトの外の泥におしやられるかのどちらかになる。町の中は人と牛の数がものすごく多いので注意しなければならない。

便所は富裕階級だけのもの

 のどかな農村風景を、東へ東へと進む。貧乏なところはおおうことができない。道路ぞいの並木に点々とサルがいて、ときどき道路を横切っている。動物の好きな人はインドへくるべきだと思う。クジャク、黄緑の大きなインコは、どこにでも飛んでいる。ラクダ、マングース、リス、ネズミが道路をうろうろしている。こんなに野性の動物がのびのびと多い国も珍しい。
 人が二人または四人で組みになって水をくみ上げている。カゴに綱をつけたもので、うまい具合いに川から畑へとくみ上げる。牛を使って、井戸から畑へ水をくみ上げる風景もよく見かける。水くみはモーターがないので大変な仕事だ。
 夜になると、まったく静かになる。小さな村に電気などはなく、ランプのほの暗い明りがかすかについている。ライトに照らしだされておしりをだした人影がうつしだされる。たいがい二人以上並んでいる。わきには水のはいったアルミのつぼが置かれて、ライトに反射してピカピカ光っている。排便したあとアルミの水で洗うのだが、別に穴をほっている様子もない。あとは乾燥した空気が水分をぬき、風が持ち運んでくれるのだ。便所を持っているのは、暮らしのよい人々なのである。
 マドラスまで、ニューデリー、カルカッタを旅し、マドラスからマラヤのペナンへと船で渡った。


第九章 オーストラリア編

旅行期間=一九六八年一月十二日〜二月四日
総走行キロ=六九六三キロ

南半球では一月は真夏

消毒されたモーターサイクル

 常夏の国シンガポールで、オーストラリアへ渡る船を待っため二十日間の休養を取った。年も明けて、一九六八年一月十二日、最後の大陸オーストラリアの西岸フリーメントルに上陸した。南半球では、一月は真夏であり、船をおりると直射日光が、じりじりと照りつけてきた。
 気温華氏百六度(摂氏四十一度)。暑いはずだ。暑さともう一つまいったのはハエである。そのハエが、また並みのハエと違う。しつっこいのだ。顔に止まって顔を振ったところで離れない。手ではらうと、手の間を飛びまわってまた顔に止まる。目といわず、口といわずおかまいなしに止まるのだ。
 モーターサイクルの持ち込みに、また、時間がかかってしまった。シンガポールで、中近東、インドのよごれを落としたつもりだったが、税関吏はモーターサイクルのフェンダーの裏側をさわって、わずかについた泥を見つけだした。不潔とみなしたのだ。おかげで大枚五ドルをはらわされてスチームで完全消毒をやらされた。もう一つアフガニスタンで手に入れたモーターサイクルのシートにしている、キツネの毛皮も虫がいるおそれがあるということで、毛皮屋に持っていかれた。
 よく私自身にクレームがかからなかったものだと思った。うすぎたない服装ながら人権を尊重したものと判断した。

パースのレースでも歓迎を受けて観客の前を走る

 ヤマハ代理店ケン・ジョージを訪ね、その晩、パースの町の中にあるスピードレースを見に連れて行かれた。楕円型の泥サーキットでは、モーターサイクル、自動車、サイドカーが轟音を立てて走り回る。毎週金曜日に開かれる、このレースは別に賭けをする訳でもなく、ただスピードを楽しむものでオーストラリアの町の中には必ずあって、国民の最も楽しみとするレクリエーションの一つになっているようだ。泥サーキット専用に作られたレースカーを若い者から中年過ぎの人までが油まみれになって点検をしている。
 このサーキットでも、主催者に歓迎を受けて、観客に紹介された。場内にアナウンスが流れて、レースとは逆に静まった泥サーキットへ、ただ一人モーターサイクルで走り込んだ。割れるような拍手に迎えられて、ゆっくりと場内を回った。
 日本からの珍客ということで彼らはおしみない拍手を送ってくれた。

オーストラリア大陸縦断

五日間で四千五百キロの一人旅へ出発

 翌日夕刻、早々にパースの町を出て、オーストラリア横断の旅に出た。東岸のシドニーから、ニューカレドニアまでの船はすでに予約をしてしまっていた。船に間に合わせるためには、西岸から東岸までの約四千五百キロを、五日間で走らなければならなかった。
 体力の方はシンガポールで、休んでいたため十分に回復していたが、モーターサイクルはすでに十三万キロ走行にならんとしていた。重い荷物を乗せて、途中部品は少しは変えているにせよ、全体には相当の疲労がきている。「一日九百キロで続けて五日間走ってくれとは、無理なことかも知れないが、もうこれだけ走れば日本だ! 頑張ってくれ」と祈る思いだった。
 緑のまばらな丘陵の道を東へ東へと進む。六十マイル(百キロ)ほど走ると家はなくなり、数十マイル走って村を通過する。土曜日の夕方のせいで、ガソリンスタンドはどこも開店休業の状態である。人がいないのだ。

第七ポンプ・ステーション夫婦の暖かい心づかい

 夜の十二時、六百四十キロ走って、第七ポンプ・ステーションに着いた。このポンプ・ステーションはパースからパイプで内陸に水を送るため途中ポンプで水圧を上げてやるところだ。
 パースから七番目のポンプ・ステーションということは百キロおきにポンプがあることになる。ポンプ・ステーションは小さな村になっているので、何か食べる物でも、と思いながらはいって行った。真っ暗な中に水タンクと数軒の家があるだけだ。そこで運よく一人の男と行きちがった。夜勤で今からポンプ・ステーションへ仕事に行くところだ。
 「よかったらおれの家の庭にキャンプでも張れよ!」といって家へ連て行ってくれた。
 「キャンプはめんどうだろう、ここで寝ろよ!」といってベランダを指さし仕事へ行ってしまった。
 夜の十二時というのに、二人の小学生の子供はまだ起きている。ベランダに腰かけてタバコをふかしていると、じわじわと汗がにじみ出てくる。昼の暑さは夜になってもおさまらないのだ。子供が紅茶とパンを運んでくれた。有難たいことだ。からになった胃袋に、ハムをはさんだ二きれのパンをおし込むと、グッスリと眠ってしまった。
 朝六時半に目にはいる太陽の光線で目がさめた。
 出発の準備をしていると、きのうは顔を出さなかった奥さんが出て来て食堂へ通してくれた。紅茶とハムサンドを出してくれながら、英国からオーストラリアへ移住してからの苦労話をいろいろとするのだった。
 「私たちは十二年前に英国から移住してきました。このポンプ・ステーションでもう四年も働いています。主人は夜勤で、昼間、眠らないとなりませんが、暑さのため、さっぱり眠ろうとしません。子供たちは夜でさえ、暑くるしくて寝つこうとしません。買い物に行くにも遠いし、物価が高いんですよ。ただ水だけは、ポンプ・ステーションで働いているので、使いたいだけ使えるし不自由しないことだけは助かります」
 その表情には、今までの、苦労がありありとうかがわれるのだった。そういえば、乾燥して草のない周囲に比べ、この家の庭だけは緑でうずまっていた。
 二人の子供に一つずつとはいかなかったが、荷物の中にシンガポールでもらった真っ青な地に真っ白な「YAMAHA」のマークのはいったシャツが一枚あった。お礼にと一枚を二人の子供に渡し、奥さんに丁重にお礼をいって先へ進んだ。

ナラボー(オーストラリアの砂漠)

延々と続く送水パイプ、オーストラリア内陸部では水が出ない

 カルグールリーは、パースから千キロの所にあり、西部で町らしい町の最後になった。現在世界でも有数といわれる金鉱の町で、昔はゴールドラッシュで人がいっぱいだったそうだ。機械化された金鉱は、死んだように静かな町になってしまった。
 この町までパースから、太いパイプがしかれ、さらに三百キロ先のノースマンまでは、細いパイプが続いている。あのポンプのためにカルグールリーの人々は生活していけるのだ。彼らにとってはまさしく水パイプは、命の綱といえる。オーストラリアで、何が一番大きな問題かといったら水である。内陸では水が無いのだ。点在する湖は、全部が全部塩水湖であり、簡単な井戸では水が出てこない。

焼けつく太陽! 役にたった麻袋の水

 ノースマンを過ぎると、オーストラリアの砂漠地帯ナラボーが始まる。もう村もまったくない。日中の暑さは、パースの四十一度どころではなかった。時たま行きかうトラックがあるだけで、ただひたすらに走った。
 この砂漠地帯では、パースでケン・ジョージさんからもらった麻の水袋が役にたった。五リッターはいる麻袋は、開拓時代の遺物であり、今でも暑い地域で、水を保存するのには一番よい方法とされている。パース〜カルグールリー間で、行きかう自動車のフェンダーには、よくこの麻袋がひっかけてあった。
 砂漠にはいったらまず水はなくてはならない物だ。麻袋の麻を通してにじみ出た水は、蒸発するとき気化熱をうばう。耐えずわずかずつにじんでいるから、麻袋の中の水はうそのように冷たい。
 私は袋を荷台にぶら下げておいたが、五リッターの冷たい水は、暑さをやわらげ元気を回復してくれた。途中ガソリンスタンドの近くにある井戸でたすのだ。

動物も暑さにゲンナリ、夜になってから活動する

 昼間静かだった砂漠は、太陽が西に沈むとともに活動を始める。主人公はカンガルー、うさぎ、イミュー(火の鳥)である。日中は暑さがはげしいため、穴の中にはいり、木の影で、じっと身をひそめている。道路わきには、車にはねられたカンガルーの死体がたえず見られた。大きなしっぽのカンガルーが太い二本足で、大きくジャンプしてモーターサイクルの光の中を横ぎる。
 駝鳥に似た大きなイミューも明りにおどろいてかけ出す。今日はカルグールリーの金鉱を見て歩いていたら、六百三十九キロしか走れなかった。
 三日目の昼ごろから舗装が切れ、砂地になった。ナラボーのアスファルトは、路面の悪い細い道だが、交通量がまったくないため、楽に九十キロから、百キロの速度をたもてる。
 砂道は走りやすいものではない。細かい砂が、表面をおおって、その下にところどころ大きな穴がかくれているのだ。ただでさえハンドルの取られやすい砂漠をノロノロ進んだ。

ただひたすらに距離をかせぐ

 途中のガソリンスタンドで、パンとわずかのハムを買い、眠くなるまで走って、星の下で寝袋にもぐり込む。ただひたすらに距離をかせぐような気持ちだった。
 砂道は四百五十マイル走って終わった。東部の町が近づくにつれ農場の緑が増してきた。ポートオーガスタにはいった時には、ナラボーでは思いもよらなかった雨が降り出した。雨のドライブはいやなものだが、この時ばかりは雨に感謝した。あのナラボーの焼きつけるような太陽はご免だ。

一日千六百十八キロ

船の出港に間に合わせるための強行軍

 アデレードの町にはいったのは西岸のパースを出て四日目のことだった。一日九百キロの計算は紙の上だけで、実際には二千九百六十八キロしか走っていない。シドニーには、遅くとも十八日の午前中に着く必要があった。長い旅の事実上の最終地点シドニーまで、最終日に最も長い距離を走らなければならなかったとは想像もしなかった。
 アデレードの町を、十七日の朝七時半に出発した。交通量の少ない、平らなアスファルトは見通しがよくきく。百キロから百十キロのスピードで東へ向かった。走りやすい。まことに走りやすい道である。オーストラリアでは、人口の多い地域とはいえ、牧場ばかりで人家は少ない。七百五十二キロ走り、メルボルンに着いたのは、夕陽も沈もうとするころであった。
 夜になると大型トレーラーが走り出す。昼間は国道を走れない大型トレーラーが、ものすごいいきおいで走っている。日本でこんなことをやったらいっぺんに物資の流通が困難になるだろう。夜道は大型トレーラーの道路となる。長いトレーラーの追い越しは、十分気をつけなければならない。
 このあたりはカーブとゆるやかな上下の丘陵が続く。夜中になるとどうにも眠くて仕方がない。つかれてきたので、速度はとっくに八〇キロを下まわっていた。モーターサイクルの運転で、これほどまでにつらいと思ったことは長い旅のなかでも経験しなかったほどだ。

睡魔と闘いながらの二十三時間連続走行

 「船に乗り遅れたってどうっていうことはない、道路わきに寝ころびたい」ただそう思うだけだった。ときどき眠りそうになる。周囲の林がボヤーッとしてハッとする。そんなことを何度かくりかえした後、勇気を振るってモーターサイクルを止めた。眠る一歩手前で、止まるという動作に移ることは並みたいていのことではなくなる。
 夜中の二時だ。荷物の中からコンロと飯盒を出して、濃いコーヒーをわかした。道ばたに腰を下ろし、コーヒーをすすりながら地図を見て、これから走らねばならない、シドニーまでのコースをじっと見て肝に命じる。
 眠気は幾分おさまった。ゆっくりとだが着実に距離を伸ばした。
 「モーターサイクルよ、何事も起こらずにシドニーまで動いてくれ」そうモーターサイクルにたのむのだった。
 首都キャンベラの手前で、夜が明けた。一番眠いときだ。速度を落として走り続ける。
 アデレードから実に二十三時間。千六百十八キロを走って午前九時半に、シドニーの町に到着した。シドニーにはいるころは眠気は取れて、逆に目がさえるという変な気分だった。


エピローグ

なつかしの祖国日本へ!

総走行キロ十三万五千二百三十キロ

 シドニーからニューカレドニアのヌメアへ渡り、ヌメアから、日本冶金の鉱石運搬船玉竜丸に乗りかえいよいよ日本へ向かった。二年八カ月ぶりに帰れると思うと一万五千トンの船足も遅く感じる。
 はてしなく広がる太平洋は、カナダへ向かった時とまったく同じように堂々と広がっていた。
 二月十九日、吹雪の中になつかしい日本の山々が見えてきた。関門海狭をゆっくり通過した玉竜丸は、いかりくるった日本海を、木の葉のようにゆられて進んだ。雪の間にかすかに山陰の山々を見ながら、二十時間の悪戦苦闘の末、若狭湾の静かな入江、宮津港へはいっていった。
 こうして、私の二年八カ月にわたる長い旅に終止符が打たれた。

強かった日本製のモーターサイクル

 日本製モーターサイクルは強かった。私の旅行中に書き続けた二百数十枚のモーターサクイルのデータが、それを間違いなく示している。アメリカのハイウェーも、ローギヤーで、四千回転以上をたもたなければ登れない、コロンビアの奥深い山々の悪路も、真冬のアンデスも、アマゾンへの道なき道も、はてしなく広がるサハラの砂漠も、四十度を越す酷暑のオーストラリアのナラボーも、すべての自然条件に耐えぬいてきた。
 ついやしたガソリン七千四百四十五リッター、オイル二百六十リットル、タイヤ十六本、プラグ六十八個、チェーン十本、スプロケット九枚、クラッチ四組。
 総走行キロ十三万五千二百三十キロ。その長い行程で会った六十三カ国の人々と、雄大な自然を決して忘れることがないだろう。
 最後に並々ならぬご協力と、ご支援をいただいた、ヤマハ発動機川上社長、諸先生、友人、家族、その他の皆様方に心からお礼を申し上げます。

― 完 ―


出典

世界を走った冒険野郎 第三部 191―322頁
株式会社八重洲出版
1969(昭和44)年7月25日発行

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