還暦を迎え37年ぶりの世界一周ツーリング

『世界を走った冒険野郎』再び

文と写真●吉田 滋

目次

連載第1回 やり残した旅、ソ連(ロシア)へ

(別冊モーターサイクリスト 2004年1月号)

1965年7月に出発、世界63カ国を巡り総走行距離は実に13万5230kmに達した2年8カ月の大ツーリング。吉田さんが大学を卒業した年、ヤマハYDS-Ⅲで出発した世界一周の旅は、当時の小社刊『世界を走った冒険野郎』にも掲載されて大きな反響を呼んだ。あれから37年、社会人の道を歩んできた吉田さんは定年を迎えた2002年6月、憑かれるように世界再訪へと旅立った。

吉田 滋さん 1942年1月生まれ、東京都出身、61歳。

1965年武蔵工業大学卒業、同年7月YDS-Ⅲで世界一周へ出発。帰国後、ヤマハ発動機に入社し、トヨタ7や大型バイクの開発に携わる。その後ヤマハモーターUSAを経てサービス情報室長、ヤマハコミュニケーションプラザ初代館長を歴任。2002年60歳の定年退職を機に37年前に果たせなかった旧ソ連の入国をシベリア経由1万kmのロシア横断で達成、その後欧州、北米を横断して2回目のバイクによる世界一周を敢行した。現在、浜松市古人見町在住。家族は奥さんとふたり。(長男、次男共、社会人になり独立)“二輪は地球を救う”をスローガンにライフワーク、ヨシダ二輪リサーチに取り組み中。「バイクとの出会いは戦後間もないころ、食べ物にも苦労する50年前にさかのぼる。目の前をかっこいいバイクが通り過ぎた、一瞬のことを今でもはっきり覚えている。いつかは自分もバイクに乗ってやるという、子供心に誓いを立てたときがバイクとの初めての出会いだった」

37年目の再挑戦

 2002年6月19日、ロシアの横断を目指して愛車ロイヤルスターで浜名湖岸の自宅を後にした。初夏の浜名湖は快晴に恵まれ、青い空と新緑を映した湖面が見事に調和していた。しばらくこの見慣れた景色ともお別れである。ロシア横断の後、ヨーロッパと北米を回って西回りで世界一周する予定だ。同年の1月に34年間勤めたヤマハ発動機を定年退職した私にとって37年ぶり、2回目のバイクによる世界一周だ。やっと実現するユーラシア大陸のロシア横断に胸を弾ませると同時に、この年齢で無事走りきれるかと言う、かすかな不安を抱きながらも、爽やかな風を切ってロイヤルスターのハンドルを握っていた。

 1回目の世界一周は1965年7月にさかのぼる。当時23歳の私は250ccのバイク・ヤマハYDS-Ⅲで日本を出発、北米から中南米、欧州を走り、1967年8月10日にはフィンランドからソビエト連邦に入る国境を目指してバイクを走らせていた。すでに日本を出発して2年が過ぎていた。東西冷戦のもう一方の大国、ソビエト連邦をモスクワまで走り、そこからポーランドほか東欧の共産圏の国々を回る予定だった。

 当時アメリカとソ連は互いに膨大な核装備を保有する中で、危険な均衡を保っていた。ソ連は鉄のカーテンで覆われ、一般市民の生活を垣間見ることはむずかしかった。そこで一般市民の生活を自分の目で確かめたいと、私はバイクによるソ連への入国を試みたのだった。ところが、ヘルシンキにあるソ連領事館は何の説明もないままバイクによる入国を一方的に拒否した。フィンランドとソ連の国境まで到達した私は、ソ連領を目前にして涙をのんだ。幸い、当時ポーランドほか共産圏の国々はそれぞれ72時間以内の滞在を許可する通過ビザを発給してくれ、ヘルシンキからポーランドへ向かう石炭船を探しバイクと共に乗り込んだ。

 ポーランドのグダンスクに上陸して共産圏の旅が始まった。ポーランドから当時の東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビアを通ってトルコのイスタンブールに到着した。その後地中海沿いにスペインのアルヘシラスへ進み、ジブラルタル海峡を越えてモロッコへ渡りアフリカ、中近東、西アジア、東南アジア、オーストラリアを走って1968年の2月に日本へ戻った。バイクで走った距離は約13万6000km、2年8ヵ月の間に地球をほぼ3周半、走ったことになる。訪問した国は63カ国だが、その中にはソ連は含まれていなかった。ソ連に入国できなかったことは、何か大事なことをやり残して旅を終えたような気がした。将来バイクで走れる日が必ず来ることは間違いない。いつか分からないが、その時にチャンスがあれば是非フィンランドとソ連の国境を越えたいと思った。

今回使用したヤマハロイヤルスター(水冷4気筒1300cc)と快く送り出してくれた家内。家内は現地の治安と私の体力を心配して何とか止めさせようとしていたが、最後は快く送り出してくれた

第一関門のロシア入国ビザ

 定年退職を迎えると、早速、ロシア旅行専門の代理店を4社ほど選びそこを訪ねた。どの代理店もロシアの旅をするにはツアーに入るか、日程を組んで飛行機、鉄道、ホテルを予約してバウチャーを買わなければビザの申請はできないと言う。バイクを使って一人でシベリアを走るなど危険極まりないとけんもほろろであった。それでも行きたければロシア人のガイドを付けて、車で先導してもらうことになるという。ガイドの日当、宿泊費、食費、ガイド料、車代はもちろん、ガイドと車を出発地まで戻す費用まですべて前もって支払う必要があると言われた。そこまでしてもビザが下りるかどうか分からないが、トライはしてみましょうという返事であった。膨大な費用を掛けて監視つきのような旅をするつもりはなかった。家へ帰って家内に旅行社の話をすると、
「今年はシベリア鉄道で下調べにでも行ったらどーお?」
 とのんきに言う。時間が経てばその内バイクで行くことをあきらめるだろうと言う魂胆がありありだった。

 私はヤマハ発動機勤務の最後の5年間をヤマハコミュニケーションプラザの設立とオープン後の運営に携わってきた。プラザを訪れる国内外の多くの人々と面識が出来た。海外からはるばるやって来たバイク旅行者も何組かがいた。その中のロシア経由でヨーロッパへ帰って行ったサイドカーのオランダ人夫妻、ロブとダフネを思い出した。すでに帰国していた彼らの自宅にEメールをうって、どのようにしてロシア入国のビザを取得したかを問い合わせた。

 彼らからすぐ返事がきた。彼らはロシア国内の団体に保証人になってもらいインビテーションレターを出してもらって、それを元にビザを取ったと言う。そして、その身元保証をしてくれたロシアの団体名を教えてくれた。早速そのロシアにある団体に国際電話を入れると、海のむこうの受話器からロシア人の担当者らしい人物が、少々なまりのある英語でてきぱきと私の質問に答えてくれた。そしてバイクでロシアを横断したいと言う私の希望に対して、インビテーションレターを書くために必要な情報をリストアップし、早々にファクスを送ってきてくれた。私は折り返しすぐに必要情報をファクスした。

 2週間ほどすると、インビテーションレターがファクスで届いた。おまけに費用は後払いでよいと言う。このインビテーションレターで本当にビザが取れるか半信半疑だったが、早速東京にあるロシア領事館へ行き、ビザの申請書に添付して提出した。

 1週間後の4月10日、ロシア領事館の開く30分前に門の前に並び、10時の開館と同時に、その日のトップで窓口に進みパスポートの引換証を渡す。担当のロシア人男性が無言でパスポートを戻した。パスポートの中を見るとどうだろう、6月から9月までの3ヵ月間のビザがあった。喜びと安堵が一気に身体を駆け抜けた。ロシア入国の第一歩の関門を突破したのだ。アドバイスをもらったオランダ人夫妻に早速礼状を書いた。

今回の旅に必要だった各種の書類。左は、ロイヤルスターの国際登録証書で、ナンバープレートと対になっている。右はロシア領事館で発行されたビザと出入国カードだ

伏木港でロシア船に乗船

 6月19日、磐田のヤマハ発動機本社、コミュニケーションプラザに立ち寄り、長谷川会長はじめ多くの人々の見送りを受けて一路富山の伏木港へ向かった。天気も良く約400kmの道を快調に走り、午後6時に能登半島の付け根にある伏木港に到着した。

ヤマハコミュニケーションプラザの正面玄関で長谷川会長(現顧問)はじめ社内外の諸先輩、友人の盛大な見送りを受けた

 6月21日の午後2時、ロシア船に乗船である。東京から家族を代表して見送りに来た次男の淳と高岡の駅前で待ち合わせ、伏木港へ向かった。港には真っ白な船体の思ったより大きい船が接岸し、多くのロシア人とこれからロシアへ運ぶ中古車、中古バイクでごった返していた。

 私が乗るロシア船、ルーシー号は1万3000tの大型貨客船で日本の中古車、中古バイクを満載にして日本とロシアを往復している。船の前方左側にある大きなハッチが開いて、岸壁から車やバイクを運転して直接船倉へ積み込むことが出来るようになっていた。船倉は2階になっていて、車の間の空いているところへバイクを入れてくれた。船倉がいっぱいになると、クレーンで車を吊り上げ、甲板のいたるところに中古車、中古バイクを積み込んでいた。

 伏木港にはロシアから日本に運ばれたアルミのインゴットがあちこちに積まれていた。後で分かったが、このロシア人たちは中古車のバイヤーであり運転手だった。車と同数180人ぐらいが船に乗り込むのだ。日本人は私ひとりで、ほかにワールドカップを応援に来てヨーロッパへ帰るイギリス人2人と、バイク旅行者3人のヨーロッパ人が乗っていた。スイス人の夫妻、マーチンとバーバラはふたりともホンダのアフリカツインに乗り、ドイツ人女性のアンジェラはホンダのドミネーターに乗っていた。3人はニュージーランドで行き会って、その後日本を3週間ほど一緒に旅してここまで来たと言う。3人とも30代の若者で国を出て2年以上もバイクで旅を続けていた。目を輝かせて話す彼らに37年前の自分の姿がダブった。ルーシー号は予定の午後6時に岸壁を離れた。36時間後、日本海を渡ればロシアへ上陸できるのだ。

 船内にはきれいなレストランがあり、ミニスカートの若いウエイトレスが一品ずつ食事をサービスしてくれ、居心地は大変良かった。食事は船賃(バイク共で5万540円)に含まれていて、日本海の船旅は結構揺れたのであまり食欲も出ず、口に合う食べたいものだけを食べるだけで十分な量があった。船室は個室でトイレとシャワーが付き、娯楽室ではワールドカップがテレビ放映され大勢のロシア人が試合に夢中だった。ルーシー号から見る日本海は雲がどんより立ち込め、風は強くしけ模様であった。

北朝鮮に近い港、ザルビノ上陸

 6月23日、昨夜までとは打って変わって船の揺れは大分おさまった。7時に起きてデッキに上がる。目の前に初めて見る極東ユーラシア大陸が見えた。夏でもどんよりした雲の下、冷たい感じの濃紺の海と濃い緑の大陸は冬の厳しさを感じさせた。気温は15度C前後と肌寒い。ウラジオストックの移民局が工事中で閉鎖されているため250kmほど南西方向にある北朝鮮に近いザルビノで乗客全員が降ろされた。岸壁に鉄道の引込み線が入っているだけで、ほかには何もない殺風景な港である。移民局と税関を通過すると古いバスが3台待機していて、すぐに乗り込んだ。ロイヤルスターは船に乗せたままウラジオストックまで回航して通関をするという。

 バスは助手席に座る人がでるほど満席で、私の横に座ったのは日本から自動車部品、タイヤを輸入し日本には3ヵ月に一度は買い付けに行っているというナホトカ在住のロシア人だった。彼は私がバイクでシベリアを走ってヨーロッパへ抜けることを大変心配し、ウラジオストックまで5時間半かかるバスの中でロシアでの旅のアドバイスをしてくれた。ロシアでは日本と違って人を簡単に信用してはいけない、ポリスとマフィアがつるんでいる、ガソリンスタンドでガソリンを買うとき、ホテル、カフェなどでお金を支払うときは必ず紙に値段を書いて確認し、大きい紙幣は出さないことなどなど、色々細かいところまで注意をしてくれた。最後には真剣な顔をしてバイクでシベリアを走ることはとても危険だからやめるようにとまで言い始めた。

 ウラジオストックまで250kmの道は半分ほどが未舗装で舗装路も簡易舗装がはげかかっていた。もうもうと埃が舞い上がり、ガタガタの窓の隙間から客席の中に入ってくる。埃まみれになって初日から喉をやられてしまった。途中農村を幾つか通るが、そのたびに隣のロシア人は家々も農機材もなにもかも古くて崩れそうな物ばかり、と卑下して言っていた。確かにどこの農家の庭先にも赤茶色に錆びた農機材が放置され、それに変わる新しい機材が見られなかった。ロシアは生産設備への投資を長年にわたって怠ってきた結果、耐用年数を過ぎた多くの生産設備が老朽化して生産効率が大幅に悪化するという大問題を抱えている。この問題をいかに早く解決するかが今後の国の発展を左右するほど重要課題となっている。

アイアン・タイガー

 午後5時にウラジオストックに到着した。ちょうど我々の乗ったバスが港に着くのと前後してルーシー号が港に入ってきた。そのままルーシー号に乗っていたほうが楽だったと思うが、ザルビノの入管が許可をしなかったのだ。しかし埃だらけになった5時間半のバス旅行は決して苦にはならなかった。隣のロシア人から多くの情報をもらえた上、ザルビノからウラジオストックまでの極東ロシアの一部を自分の目で見ることが出来たのだ。その日は船からバイクは降ろさないということが分かり、日本から予約を入れた1泊朝食付で50ドルのホテル・ルネッサンスへ向かうことにした。

▲ウラジオストック港に停泊するロシア軍の戦艦。日本海を渡ったロシア船ルーシー号の甲板から、初夏とは言え雲がかかると肌寒く冬の厳しさが感じられた。

 ホテルは港から急な坂道を登り、大通りから入った分かりにくい場所に建っていた。3階建てのホテルの外観は古く、入り口で目付きの悪い男がじろじろとこちらを見ていた。かまわず中に入ると受付があり、女性が1人座っていたが、私が入ってきたのに気がついていながら無表情に黙っている。こちらから予約票を渡して2泊予約をしてあることを告げると、怪訝そうな顔で暫らく書類を調べてパスポートを提出しろという。旅行者は必ず警察へ届けなければならないので、パスポートは受付で預かるというのだ。愛想の悪い応対に大変驚いたがその後の旅でロシアのホテル、商店での普通の対応であることが分かった。外国人旅行者は宿泊した町、村どこでも必ず警察へ届けを出さなければならない決まりになっていて、ホテルに泊まった場合、ホテルが代行して届け出をしてくれることも分かった。ホテルの内部は外観に似合わず小奇麗に改築されていて、入り口の目付きの悪い男はホテルが雇ったガードマンだった。

 翌朝ホテルを出ると町を歩いて港まで坂を下りていった。ウラジオストックは北緯42度、札幌と同緯度でロシアでは最も南に位置した大都会である。緑が多く坂の多いきれいな町だ。車は90%以上が日本車だが、町並み、道路、人がまったく日本とは違っているので、初めの内は車が日本車ではないように見えた。

ウラジオストック郊外で見かけた、ロシア製のバイク、ウラルと、そのリヤシートに座るロシア娘

 フェリーから通勤客が大勢降りて来た。皆、忙しそうに歩いている。朝の通勤時間帯はどの国も変わらない。軍港を過ぎて、ルーシー号の停泊しているところへ向かい、船に泊まった3人のヨーロッパ人と会って、バイクを降ろす船倉の貨物出し入れ口へ行った。9時半にバイクを船から降ろし、保税倉庫に入れた。すぐに出してもらえると思ったが、船のエージェントの事務所で3時間も待たされた。税関は町中に有り、港と税関を何度か往復して、その両方で待たされること2日間、やっと6月26日午前10時半保税倉庫へ行って手数料30ルーブル(約120円)を払い、3日間掛かった通関が完了した。

ロシア到着後、ウラジオストックでバイクの通関に使用した通関証。裏面には高額な持ちものを書く欄があり、ロイヤルスターのほか、ソニーのビデオカメラを書き入れた

 ウラジオストックの中心からバイクで15分ほどの郊外にコンクリート塀に囲まれた倉庫兼事務所があり、その一角にオートバイクラブ、アイアン・タイガーのクラブハウスがあった。入口にはものものしいガードマンが監視している。このクラブはウラジオストックを訪れるバイク旅行者の世話をしてくれるグループで、バイク仲間の間でよく知られている。私も3人のヨーロッパ人もこのクラブを知っていて、我々もここで2日間世話になった。メンバーは20名程度で、クラブの活動に加え中古の日本製バイクを輸入して整備し、ロシア全土に販売している。

 クラブの会長ミカは40歳で、年に数回は日本へ中古バイクの買い付けに行っている。浜松も何度か通ったことがあると親しみを持って迎えてくれた。1階にワークショップがあり整備中のバイクが20~30台雑然と並べられていた。2階がクラブハウスで大きなテーブルが打ち合わせ用として置かれその横の空きスペースに寝ることになった。何十年ぶりに寝袋で寝たが眠りが浅く20代のころのようにはいかなかった。前回のバイク旅行ではどこでも寝袋でぐっすり眠れたのだが。

ウラジオストックのモーターサイクルクラブ、アイアン・タイガーのメンバーと。10日ほど旅を共にしたスイス人夫妻(左から3人目と右から2人目)とドイツ人のアンジェラ(左から2人目)

ユーラシア大陸横断に出発

 6月27日、会長のミカからロシアの道路状況やオートバイ状況の情報をもらいアイアン・タイガーの主要メンバーと記念写真を撮った。ロイヤルスターに乗るのにもっともふさわしいと言って、メンバーのひとりから60年以上も前に旧ロシアの軍隊が使用したというベルトをプレゼントされた。いろいろなバイクを目にしているメンバーにとってもロイヤルスターは羨望の的であった。早速もらったベルトをはめると、メンバーから拍手を浴びた。その後、ロシア旅行中このベルトのバックルのデザインを知らない人はなく、人々に親近感をもって受け入れてもらえる貴重な材料となった。

 午後2時半いよいよユーラシア大陸横断の旅に出発だ。幹線道路に出るまでメンバーの一人が道案内をしてくれた。片側2車線の舗装道路で車も多く快調に走り始めた。マンホールの蓋の部分が路面より10cmも凹んでいたり、ところどころ舗装がはげて穴が開いている所があるので注意して走行した。100kmほど走ると片側1車線道路になり、交通量が驚くほど少なくなった。200kmほど走って小さな町ウスリスクに着いた。キオスクで飲み物と食料を買い、遅い昼食をとった。小さな村でも町でも必ずキヨスクがあって、食料は豊富だ。水は常に切らさないようにペットボトルのミネラルウォーターを購入した。日はまだ高いがもう夕方6時だ。バイク、自転車は少ないがロシア製サイドカー・ウラルを時々見かけるようになった。農家が足として、荷物の運搬用として使っていたのだ。ウラルは水平対向エンジンを搭載し、長年デザインも変えず作り続け、今も年に5000台前後の生産を続けている、一見クラシックバイクだ。ニエップルというウラルよりひと回り大柄のバイクも少量生産されている。

 天候もよくバイク日和で4台は快調に走った。1日目は午後9時ごろまでに350kmを走って、キロブスキーという村に入った。キロブスキーとは日本語で「清流」という意味だとミカから聞いていた。道路わきを流れる小川は確かに所々澄んでいるが、残念なことにゴミを捨てる人が多くゴミ詰まりで清流どころではない。国土が広く人口密度が低いにもかかわらず町や村がゴミで汚されているのは残念だ。

 ガソリンスタンドで燃料を補充し、クラウンに乗って同じスタンドに来ていた村人に宿が無いかたずねると、わざわざ宿屋まで案内してくれた。幹線道路から200mほど入った一見普通の家のような外観で旅行者には分かりにくい所にあった。宿屋はロシア語で「ガスティニツァ」という。よく見ると入口に小さく看板が出ていた。1泊250ルーブル(約1000円)と驚くほど安かったが廊下は暗くドアは壊れそうだ。トイレの便座もなく、シャワー設備は錆び、ともかく古かった。ベッドは壊れそうだったが、シーツと枕カバーはきれいに洗濯されていて助かった。

 宿屋にガレージがなかったので、宿屋の息子が近くに大きな扉のついた倉庫を探してくれ、そこでバイクを預かってもらった。ロシアでは駐車場のことを「スタヤンカ」と言い、ある程度大きな町には必ずこの「スタヤンカ」が有った。鉄条網で囲まれていて、番人小屋があり夜中も番人がここで寝泊りしている。夜中には門を閉め猛犬を中に放すのだ。一晩預かってもらって30ルーブル(約120円)から100ルーブル(約400円)が相場でバイクも4輪と同じ金額を取られた。以後「スタヤンカ」のない小さな町や村では、ここのように鍵のかかるドア付きのガレージや倉庫を探して預けた。

 6月28日、今日はハバロフスクまで行く予定だ。ハバロフスクの手前70kmのところに第二次大戦後ロシアに抑留された日本人墓地があることを、ザルビノからウラジオストックに行くバスで隣に座ったロシア人の部品商が教えてくれ、私の持っている地図上に印をつけてくれた。目印は鉄道の踏切を2つ越え、約1km先の左側と頭に入れておいた。幹線道路から10mほど入ったところに記念碑が建っているのに気づいた。同行の3人に合図をして、記念碑のところでバイクを止めると、まぎれもなくそこが日本人墓地だった。奥のタイガの森の中に100近い石柱が静かに立っていた。周囲に人家は無く全く静まりかえって、いよいよシベリアの大地に入ったという感を強くした。厳寒の冬、限られた食料と強制労働のなかで命を落とした人々に頭を深く下げ先を進むと、道はいつしかハバロフスクの町へ入った。ハバロフスクは北緯48度(カラフトの真ん中と同緯度)に位置し、アムール川のほとりにあるきれいな町だ。

ハバロフスク郊外にあるシベリア戦没者の慰霊碑

リンクス・オブ・アムール

 ハバロフスクではまずオートバイクラブのリンクス・オブ・アムール(アムール河の山猫)を訪ねると、町の中心にあるカムサモーリスカヤ広場まで副会長スラバが車で迎えに来てくれた。彼の後についてオートバイクラブのワークショップへ行くと、彼らも、日本製中古バイクを輸入整備して販売していた。又ロシア製のウラルの改造チョッパーも作って売っている。クラブ員は皆夫婦で革の上下のツーリング服でばっちりと決めツーリングを楽しんでいた。国は違っても、同じバイク好きは自然と話が合うものである。

リンクス・オブ・アムールの副会長スラバ夫妻。バイクに乗るときは夫妻とも、革の上下で決めていた。

 シベリアの夏は蚊が多いと聞いていたが、聞きしに勝るものだった。ハバロフスクは特に蚊が多いところで、虫除けスプレーを塗っていても、町の中でもワークショップの中でもどこにいてもおかまいなしに蚊にやられた。

 2日目の晩は日曜日とあって、クラブ挙げて我々のために大歓迎パーティーを開いてくれた。夕方から男たちは場所を作り、火をおこして大きな鍋でスープを料理し、空いたペットボトルをもってビールの買出しに行く。ビールは量り売りで買うと、缶ビールを買う半分以下の値段で買えるという。ウォトカも買ってきた。女たちは食器を洗って机に並べ、野菜を切ってサラダを用意し、全員が手分けして準備をした。2~3時間煮込んだアルメニア料理のスープはうまかった。野菜も熟した物をとってくるのでまずい訳はない。パーティーの間じゅう、火を絶やさず木の葉を投げ入れて煙を出して蚊を追い払った。2晩ともクラブハウスのコンクリートの上にエアマットを敷いて寝袋に入って寝たが、虫に刺されてよく眠れず寝不足気味になった。

ハバロフスクのモーターサイクルクラブ、リンクス・オブ・アムールのメンバーと。大歓迎を受け、ふた晩このクラブハウスでお世話になった

シベリアのタイガの森と湿原と悪路

 6月30日、リンクス・オブ・アムールのメンバーに別れを告げハバロフスクを後にした。アムール川にかかる長い橋を渡り、中国領に沿った道を走っていくと、中国領に一番近いところは国境まで23kmだった。その日は遅い出発だったので200kmほど走り、ビロビジャンの町で泊まった。夜、すごい雷と雨だったが、明け方には雨も小降りになり出発するころには雨も止んだが、昼間はその影響で湿度が高く、久しぶりに蒸し暑くなり気温は35度Cまであがった。

中国の国境まで23kmの道標。ハバロフスクを過ぎてスィラバ付近

 未舗装路では我がロイヤルスターは350kgの巨体をコントロールするのが大変である。特に砂利を厚く敷いたところは前後輪をとられてバイクがまっすぐ進まず、横に流されてしまう。対向車にぶつからないように細心の注意を払ったが、一度、カーブで道からはずれて転倒し、フォグランプを壊した。通りがかりの車から2人のロシア人が降りてきてくれ、後から走ってきたスイス人のマーチンが追いつき、4人がかりでバイクを道路上に押し戻した。愛車はウインドシールドとタンクに擦り傷が出来たが、エンジン、車体に問題はなく先を進んだ。辺りには白樺、唐松、黒もみのタイガの森が延々と続き所々湿原が広がる。短い夏を謳歌するように色々な自然の花が咲き乱れ、心を和ませてくれた。

 アムール川の支流、セレムジ川に来ると橋がかかっておらず、川幅も100mほどもある。幸い、トラック、乗用車などが10台ほど乗れる小さなフェリーがあることが分かった。10分ほど待ってフェリーに乗ると、5分ほどで対岸に着いた。フェリーを降りて小さな町を通過すると悪路が続き、日が傾くと急に気温が下がってきた。行けども、行けどもタイガと湿原が続き、いい加減で次の村か町が見えてほしいと思った。夕刻10時にベルゴルスクに入った。今日は511kmを走って悪路が半分ほどあった。

タイガの森を切り開いて進む幹線道路。ハバロフスクからシマノフスクまで900kmの道のりの内、ほぼ半分が未舗装路

シマノフスクで貨物列車に乗る

 7月2日、シマノフスクまで213km走った。シマノフスクから先はローカルの道はあるものの川に橋がなくフェリーもない。シルカまでの1000kmの道のりは、モーターサイクルを貨車に載せ進まなければならない。日本で調べて分かっていたが、ここが最大の難所である。まず、バイクを載せる貨車を探さなければならない。駅の切符売り場で係員に聞くが、バイクを貨車に載せる手続きはここではやっていないと言う。駅から100mほど離れた貨車専用の建物を見つけ、その係員と交渉を始めた。どうも要領をえず担当者が来るまで待ってほしいということらしい。結局その日は、話が進まず駅の構内にあるステーション・ホテルに泊まった。駅には日本のコンビニのような店があり、食料と飲み物をそこで買い、夕食にした。ホテルの部屋を確保したあと駅から5分ほど離れたところにガレージを見つけたのでバイクを預けに行った。

 翌朝7時に起きて紅茶でも飲もうかというとき、急に8時までにバイクを持ってくれば貨車に乗れるという情報が入った。大急ぎで荷物をまとめ、タクシーでバイクを取りに行く。この機会を逃したら、次にいつ貨車に乗れるか分からない。バイクで駅に戻り、車の後について来るようにと言う係員と共に線路をいくつも越えて行くと、バイクを載せるという貨車にたどり着いた。出発前入手した情報では屋根なしの貨車だと聞いていて覚悟していたが、屋根付きの貨車だ。

 貨車の中にはすでに日本からの中古車が上下2段に6台が積まれていた。後ろの空いたスペースにバイクを乗せてくれるという。プラットホームもなく、1m以上もある貨車の高さにどうやってバイクを載せるのか困惑したが、結局板をスロープにして350kgのバイクを、総勢8人で貨車に押し上げた。6人は日本から中古車を運び、シベリアの内陸まで自走して行くロシア人のバイヤーたちだった。

シマノフスクからシベリア鉄道の貨車へバイクを積んだ。貨車に乗って800kmを一昼夜かかって、チェルニェシェビスクへ

 この場所まで案内をしてくれた係員と値段交渉をして、運賃はバイクと人間で2500ルーブル(約1万円)となった。ただ、貨車は出発前に聞いていたシルカまでは行かず、シルカより約200km手前のチェルニェシェビスクまでだということが分かった。同じ貨車に載っている自動車もチェルニェシェビスクで下車してそこから先へ進むのだからバイクも何とかなるだろうと思った。

 マーチンとバーバラのカップルはここからさらに200km先の駅まで走るということで別れることになった。ここから先は川に橋が無いので鉄道の鉄橋をバイクで越えなければならない。アンジェラは私と同じように、ここまでが限界だと言うことで同じ貨車に乗った。ここからチェルニェシェビスクまでは約800kmの距離があり貨物列車で24時間かかるという。貨物列車には客車が無いので食料を持ち込まなければならない。出発までの30分の間に急いで駅に戻り、食料と飲み物を2日分ほど買い込んだ。貨車はその後構内を何度か移動し、50両ほどある貨物列車に組み込まれた。結局正午を回ってようやくシマノフスクを出発した。

連載第2回 極北の地で34年ぶりの再会

(別冊モーターサイクリスト 2004年2月号)

車中の寝室は天国

 貨物列車には、車掌室が何両かおきに1つ付いていて、狭い車掌室に座らせてもらい今日はじめての食事をした。車掌室の隣に幸いトイレがついていたが、汚なくて貨車が止まったときに近くの草むらへ行ったほうがましなぐらいだ。

 ここの車掌は少し英語を話した。36歳で子供が2人、上が12歳の娘で、下が7歳の息子だそうで、アフガニスタン紛争に出征し、炸裂弾にやられ大怪我をして3ヵ月で国へ戻ってきたという。彼は夕食時に電気コンロでお湯を沸かして紅茶をご馳走してくれた。その食事はバイカル湖で採れた魚の薫製とパンで、3匹のうち1匹を食べないかと進めてくれた。塩味が強かったが、日本人の好みの味だった。代わりに私は駅で買ったハムとチーズを分けた。彼はバイクを3台持ち、大変なバイク好きで、ロシア製のウラルとニエップルを持っている。ロシア製は故障が多く、貨車に積んである私のロイヤルスターの方向を指差して日本製が欲しいと笑いながら言った。

 窓の外にはシベリアのタイガの森と湿原が延々と続き、鮮やかな緑に白い白樺の幹が映えて大変美しく、10時ごろ夕焼けになり、西の空が赤く染まった。

延々と続くタイガの森。シベリア鉄道は全線電化されており、驚くことに複線である。ソ連時代から国の東西を結ぶ大動脈だ

 車掌が中古車の運転手に話をしてくれ、自動車の助手席に寝かせてもらうことになった。幸い車掌室は2段ベッドがあり、アンジェラは2段ベッドの上に寝かせてもらえることになって、まずはひと安心のようだった。私は懐中電灯を頼りに、身体を横にしてやっと通れる隙間を進んで助手席にもぐり込んだ。フラットベッドの貨車で吹きさらしの中、寝袋で寝ることを覚悟していたので車の中で寝るとは天国だった。この車の運転手は運転席でもうぐっすり眠っていた。小さい窓が貨車の前方に一箇所あるだけで、貨車の中は真っ暗だった。もし火事でも起きたら通路が狭くて逃げられないだろう、などと思いながら私は疲れてぐっすり眠ってしまった。

 翌日は天気が良く気分的にも余裕が出来、貨車の出入り口のドアを開けたまま床に座り込んで外の景色をゆっくり見て、シベリアの自然をたん能した。貨物列車はスタノボイ山脈のなだらかな山並みをゆっくり曲がりくねって進む。行く手にはトンネルなど全くなく、100km間隔ぐらいで駅があり、そのつど停車するが停車時間はまちまちで、貨物列車が走り出す合図もない。プラットホームで背伸びをするか、出入り口のそばを歩いて体を動かすことぐらいしかできなかった。

 駅を中心に農家が点在し、駅と駅、村と村をつなぐ道は川にさしかかると橋が架かっていないために分断されて交通手段は汽車に限られている。冬は川が凍るので2輪オフロード車ならば、何とか通れるようだ。夏の間にここをバイクで走れるようになるのは、まだだいぶ先のような気がした。この部分が通れるようになると、シベリアを通ってヨーロッパに行くのが非常に楽になるだろう。一方、車が多く通ればこの広大な自然が破壊されることになる。環境保護と便利になることの両立を考えなければならない。

チンギスハーンが傷を癒した湖

 午前11時ころ、貨物列車の終着駅チェルニェシェビスクへ到着した。長い貨物列車の貨車を1台ずつプラットホームに横付けして、自動車や積荷をおろし始めた。我々の貨車は2時間ほどたってからやっと積荷を降ろす順番がきた。350kgのロイヤルスターを貨車から降ろすため、同じ貨車に乗っていたロシア人たちが手伝ってくれた。ロイヤルスターをおろす前にパンクの原因になりそうなプラットホームに落ちている釘や針金や金属を拾い集め、きれいにした。ウラジオストックからここまで幸いにパンクなしで来ている。大型バイクのパンク修理は大変だ。

チェルニェシェビスクの駅で貨車から降ろされるロイヤルスター。同じ貨車に積み込まれた日本製中古車6台のロシア人バイヤーたちはとても親切で、お互いに助け合ってバイクやクルマを降ろした

 3時にチェルニェシェビスクの駅から再びバイクにまたがって出発した。1km程進むと我々が乗ってきたシベリア鉄道の踏切にさしかかった。ちょうど踏切上に機関車が止まっていて踏切が閉まっていたが、よく見ると線路側へ入った路面に埋め込まれた鉄板が手前に向かって持ち上がっている。鉄板が障害になり、車が踏切の中に入れないので待っていた。機関車が踏切から遠ざかると鉄板が路面と同じ高さに下がり踏切が上がる。ロシアでは必ず踏切小屋があり踏切番がいて、こういった安全策がとられていた。

シベリア鉄道の踏切。踏切棒が上から降りると同時に地面の鉄板が手前に持ち上がってくる。モトクロスレースのスタートにある障害板と同じ原理だ

 7月4日、夕方から降り出した雨は朝になっても降り止まず雨の中を出発したが午前中に雨はやみ太陽が顔を出すと、一変して急に蒸し暑くなった。ウランウデへの道を気持ちよく進んでいるときれいな湖と森に囲まれたキャンプ場があり、アンジェラが今日はここに泊まろうと提案してきた。見るとロシア人が湖で泳いだり、家族連れでキャンプをして短い夏を楽しんでいる。まだ午後3時でもう2、3時間は走りたかったが疲れがたまっていたので同意した。

 ウラジオストックで購入したテントがはじめて役に立った。アイアン・タイガーのミカがチンギスハーンの軍が傷を癒したきれいな湖がこの辺りにあると言っていたのを思い出し、キャンプ場のオーナーのイアンに尋ねると、まさしくこの湖だという。湖の水が傷に効く成分を含んでいるそうだ。チンギスハーンの生きた13世紀の時代と変わらないように水は澄んでいた。

 イアンは夕食に鹿肉のバーベキューを作ってくれた。まず焚き木で火をおこし、ジャガイモを茹でる。そして炎が無くなり炭火になってから鹿肉を串に刺して焼くのだ。バーベキューの煙が蚊やアブを追い払ってくれた。ビールのつまみに大鹿の薫製を食べさせてくれながら、冬の間に猟をして薫製をつくり一年中食べると話してくれた。生肉に近く塩が多少強かったがとてもおいしかった。

 翌朝ひんやりと澄み切った大気の中、湖の冷たいきれいな水で顔を洗うと清々しかった。イアンが朝食を準備してくれ、朝食をとりながら狩猟の写真を自慢げに見せてくれた。ヘラジカ、鹿、野鳥、みな大切な食料源だ。彼はキャンプ代として食事を含め、わずか100ルーブル(約400円)を請求しただけだった。シベリアの人里離れた場所で狩猟生活を続ける純朴そのものこんな人たちが、いつまでも自然の恩恵を受け、平和に生活できるようであって欲しいと願いつつキャンプ場を後にした。

コバルト色に輝くバイカル湖

 ヤブロノイ山脈は、チタからバイカル湖へ抜けるのに、必ず越えなければならない東西に走る山脈である。長い上り坂をまっすぐに進んで行くと、道が曲がりくねってきた。簡易舗装の道は、90~100km/hの速度で走る。ロイヤルスターには最適のカーブが続く坂道で、背もたれに寄りかかって気持ち良く走った。このバイクにして正解だった。

 夕刻6時、ウランウデに到着し、宿を決めた。ウランウデはブリヤード共和国の主都でここからモンゴルの首都ウランバートルへ行く道がある。ブリヤード人は、モンゴル系で日本人とそっくりな顔をしている。当日は市制336周年記念の祭典が開かれていて、町の中心広場は大賑わいだった。舞台では民族衣装を着た若者が順番に民族舞踊を披露していた。コザック、モンゴル、白系ロシア人といろいろな民族が仲良く暮らしている。

 アンジェラはモンゴルに行くと言ってこの町で別れた。女性の一人旅は危険だと思うが彼女は一人でアフリカも旅をしたことがあるという大変な男勝りだ。その後Eメールで9月末に無事故郷に着いたと言う連絡が入りほっとした。

 7月8日、ウランウデからイルクーツクへ向かう。ヤブロノイ山脈を越える道はいつしか緩やかなカーブと坂になり、道の脇でブルーベリーを瓶に入れて売っている村人の姿をたびたび目にするようになった。看板もなく、呼び込みもしない。ただじっと座っているか、草むらに寝転んでいるだけである。さらに進むと魚の薫製や生魚を並べている出店にも行き会った。シベリア鉄道の貨車の車掌からもらった魚の薫製はこれと同じものだった。

 出店を過ぎると進行方向の右手に青く広がる湖が見えた。バイカル湖だ。晴れ渡った青空の下でも、対岸が見えないほど大きくまるで海のようである。タイガの森の向こうに広がるコバルト色のバイカル湖は期待以上の美しさで、しばらくバイクを止めて見入ってしまった。バイカル湖は世界一深い湖として知られていて、その水はエニセイ川に流れ、北極海にそそいでいる。バイカル湖を横に見ながら走り続けた。このあたりは山が迫り、道路とシベリア鉄道が平行して走っている。シベリア鉄道が見えるところで今まで何回か休憩を取ったが必ずといってよいほど列車に出合ったことを考えると、シベリア鉄道がフルに稼動し、ロシアでは重要な輸送手段になっていることがよく分かった。バイカリスクの村では30人ほどの村人がバケツにイチゴを入れて道端で売っていて、車で通りすがりの人たちがそれを買っていた。作物は豊かに実っているようだ。イルクーツクに近づくにつれ、道路は良くなり交通量が増えてきた。

 町の入り口でヤマハインポーターのショーシンさんと待ち合わせ、イルクーツクで2泊してゆっくり休養を取った。イルクーツクの町からバイカル湖までは約70kmあるがその途中の森や村、そこにできたレストランがとてもきれいだった。そのレストランでは意外なことにイルクーツクの人たちが、バイカル湖の魚を生で食べていた。さしみと同じようにスライスしてあるが、塩とこしょうで食べるのだ。試してみたが日本人としてはわさびとしょうゆが欲しかった。

 2日目の晩はショーシンさんの友達で自動車部品業を営んでいる人の家で夕食会に招かれた。その家はイルクーツクの高級住宅街の中の邸宅で、高い塀に囲まれた大きな門の内側にはガードマンの家族が住む家もあり、花壇と並んで広い菜園がある。夕食に出された野菜はほとんどが自分の菜園の物だという。料理の中に凍らせた魚があった。これは今日この家の持ち主がバイカル湖で釣ってきた魚を凍らせたものだそうで、ナイフで切ると言うより凍った魚の身を割って塩と胡椒で食べるのだ。地元の人は皆こうやってよく食べるという。岩魚を多少、太めにしたような白身魚の、しゃりしゃりした食感はあまり食欲をそそるほどではなかった。この高級住宅街は建築ラッシュで地方都市でも金持層が増えている様子が見られた。

道ばたでブルーベリーを大きなカゴに入れて売っている農家の親子。ウラルのサイドカーは農家の重要な輸送手段になっている
森の後ろはバイカル湖。そこで捕れた生魚や、薫製にした魚を幹線道路沿いに出店を出して売っている
バイカル湖で捕れた魚の薫製。シベリア鉄道の貨車で車掌に分けてもらったものと同じだ
コバルト色に輝くバイカル湖。対岸は見えず、まるで海のように大きく世界一深い湖だ
イルクーツクまであと150km余りのバイカリスク村でイチゴを売る村人。今回走った幹線道路では、こういった物売りが大変多い。農村では現金収入が少なく夏の交通量の多い時期に少しても現金を手にしようとしている人々だ

冗談好きなロシア人

 7月10日イルクーツクを出発。片側2車線の立派な道は30km走ると片側一車線になり、50kmほど走ると未舗装路となった。雨が降り始め、穴ぼこ道は泥だらけになった。そんな悪路を何箇所か通過し、トゥルン、カンスクを過ぎて北緯56度のクラスノヤルスクを通ってケメロバへ向かった。道路標識はロシア語だけなのでしっかり見なければならないが、どうも見落としたらしい。通りがかりのロシア人が車から降りてきて道を教えてくれた上、温かいコーヒーをご馳走してくれたが、蚊にさされるやらウンカがコーヒーの中に飛び込むやらで、ゆっくり味わう余裕もなく、急いでコーヒーを飲みお礼を言って先へ進んだ。

 この辺りから西へ進む道は複数になるので特に注意して道路標識を見なければならない。踏み切り待ちで止まったとき、鉄道工事をしていた労働者のひとりが私のロイヤルスターを見付けて30mぐらい離れた所からすっ飛んできた。そしてバイクをじっくり見た後、大げさに手を広げて大声で、踏切の脇に停めてあるロシア製のバイク(ウラル)を指差し交換してくれと言っているようだ。人の良い笑顔を浮かべているのを見ると、冗談なのは一目瞭然ですぐ分かる。ロシア人は初めて会う人にもジョークを言うほど人懐っこい。

 ケメロバの町に入り、ホテルを捜した。町中でバイクを止めると大勢人が集まってくる。物珍しそうに「何気筒か」「何馬力か」「スピードは」「いくらか」と、V型水冷4気筒に目を丸くして驚いている。ロシアには、モンゴル系ロシア人が沢山いるので私のことを外国人とは思わず、ロシア語で矢継ぎ早に質問してくる。私が日本からきた旅行者であることを何とか覚えたロシア語で話すと今度はゆっくりロシア語で聞いてきた。一般の人で英語を話す人は少ないのだ。若者も子供も年よりもどこでもみな人懐っこく、ロシア語で話しかけてくると同時にバイクのハンドルやタンクを触る。このようなバイクを欲しいという気持ちがありありと分かる。

 大勢人が集まったので、何事かとパトカーが止まった。これ幸いと警察官にこの町にホテルはないかと尋ねると案内をするからついて来いという。集まった人たちに別れを告げ、パトカーについて行くと、外観からはホテルとは分からないような4階建ての古い建物に案内してくれた。1階が商店で2階から4階の一部がホテルになっていた。驚くことに建物の一部が警察署で、バイクもそこで預かってくれた。これほど安全な場所はない。

トウルンで会った農家の夫婦。これから町へ買い物に行くところだ
ホテル・クラスノヤルスクとホテル前の公園。夏の日の長い夕方を大勢の市民がノンビリと過ごしていた
ケメロバの町の入り口にあるポリスステーション(検問所)。町の出入り口、州境ごとにあってパスポートをチェック。バイクの持ち込み証もチェックされた。日に何回となく検問所を通過するのは大変面倒であった
ケメロバにあったキオスクの売り娘。どこもそうだが商品には1点ずつ値段が表示されている。食料はどこも豊富だ

穀倉地帯の中心都市ノボシビルスク

 7月15日ケメロバを出発。古い工場群からもうもうと煙が出て町全体がスモッグで覆われていて、昭和30年代の川崎の工場地帯を思い出した。今朝は寒く道行く人々が裾の長いコートを着込んでいる。気温が摂氏10度まで下がった。私も防寒ズボンをはきジャケットにもキルティングの裏地を付けて寒さに備えた。10kmも走るとスモッグも無くなり青い空から日が差し始めたが、それでも気温が上がらず、防寒着を着たまま走った。

 この辺りは北緯55度に位置し、カムチャッカ半島の中間点と同じ緯度で、豊かな穀倉地帯だ。西シベリアの平原を開墾して見渡す限りの小麦畑や牧草地帯が広がっている。大型農業機械を使っているが、時々牧草の運搬にはサイドカーや馬の力を活用している姿が見られた。短い夏の間に食料用の小麦と、家畜用牧草の刈り取りに忙しい真最中だ。

 300kmほど走って3時ごろ早めにノボシビルスクに到着した。町の中をオビ川が流れ、大型の船が行き来している。ロシアの大都市はどの都市にも大きな川が流れていて、船は貨物輸送の重要な手段になっている。鉄道中央駅目の前に23階建てのホテル・ノボシビルスクがあった。外観は立派だが中は薄暗くロビーのソファには例のごとく用心棒がふんぞり返る、ロシアの典型的な国営ホテルだ。宿泊料金が、外国人は850ルーブル(約3400円)、ロシア人は600ルーブル(約2400円)という二重価格を堂々と受付に表示してある。部屋に荷物を置いて、インターネットの送れる場所を捜しに町に出た。

 駅前には商店が並び、大勢の人で賑わっていて、食料、雑貨など物資は豊富だ。穀倉地帯の中心地なためか、農家の人が多かった。バスの大きな発着場があり、大型の市内バスの乗り場と近郊へ出る中型バスの乗り場がはっきり分かれていた。大型バス、トロリーバスは耐用年数を越えてどれもガタガタである。補修をしながら、といっても限度がある。公共交通機関に近い将来問題が起こらねばよいがと心配になった。人に聞きながら1時間ほどインターネット・カフェを捜したが、行きつくことができなかった。今日は場所捜しにとても手間取った。

有料駐車場(スタヤンカ)の入り口にあった看板。乗用車1日50ルーブル、トラック1日70ルーブル(真ん中は分からない)。バイクはどこでも乗用車並みを請求された

34年ぶりになる偶然の出会い

 7月16日ノボシビルスクを出発した。町を出ると見渡す限りの牧草地帯が続き、さらに進むと湿原になった。進行方向右側の空き地にバイクが20台近く止まって、昼食をとっていたので速度を落とし、彼らのところへ行くと日本人のツーリング・グループだった。バイクをとめて「こんにちは!」と声をかけると「こんにちは!」と返事が返ってきた。シベリアでこんなに多くの日本人に出会うとは、と驚いて互いに挨拶をかわすと、赤いジャケットを着て日に焼けた精かんな顔付きの人が、「吉田さんですね」と私の名前を呼んで話しかけてきた。よく見ると、なんと34年前に一度会ったことのある賀曽利隆君だ。

賀曽利君と34年ぶりに感激の再会。ロシアのシベリアで出会うとは夢にも思わなかった。私は彼の活躍を雑誌や本で読んでいたのでバイク姿は見慣れているつもりだった。彼にとっては、私の記憶は34年前に一度会っているだけの記憶である。それが何と「吉田さんですか?」と話しかけられたときの驚きは大変なものであった。何と素晴らしい記憶だろうか!

 私が前回の世界一周を終え、日本へ戻ったときに、これからバイクでアフリカへ行きたいという彼が私を訪ねて来たことがあった。私たちはシベリアの草原という思いがけない場所での思いがけない再会に感激し固い握手をかわした。賀曽利君はバイクのアフリカ旅行を達成。その後次々と国内外を走破し、今や世界のバイクツーリストの第一人者となっている。彼の立派なところは、国内外を走る中で家庭を持ち3人の子供さんを立派に育てあげたことである。

 このグループは「道祖神」という旅行会社が募集した、ウラジオストックからポルトガルの西端まで走りきるバイクツアーの一行だった。メンバーの中には私が単独でバイクのロシア横断をしていることに非常に驚いていた人がいた。私のように個人でのバイクによる自由旅行はまだ不可能だと思っていたようである。昼食を終えてそろそろ出発しようとするところだったが、私の昼食にとカップメンをご馳走してくれた。日本食を一切持ってこなかったので、1ヵ月ぶりのうれしいしょうゆ味だった。お互いの安全を祈り、リーダーの賀曽利君を先頭にして、グループに同伴したロシア人通訳と道祖神の責任者をのせたバンも続いて先に出発して行った。

ウラル山脈を越えて

 ガバガンスク、オムスク、チェリアビンスクを経て7月21日、浜松を出てちょうど1ヵ月が過ぎた。広大なシベリアとお別れである。ともかくシベリアは広かった。すでに走行距離は7000kmを超え、鉄道に乗った距離を足せば8000kmになる。道路が悪い、宿が汚い、と思ったが、日本の昭和30年代を思えば、どうということはない。あのころは国道1号線の東京~浜松間にも未舗装路が残っていた。日本一周をしたとき、北海道、九州、四国は8割方が未舗装路だったし、前回、世界を回ったときはコロンビアの険しい山道はほとんどが未舗装だった。ブラジリアからアマゾンの河口ベレンまで約2000kmがまったく未舗装の悪路で、そこを37年前の250ccのバイクで往復4000km走ったことを思えばシベリアの悪路はどうと言うことはない。ここまで来て冷静になって思い返し、そんなふうに思った。

 ゆるく長い上り下りの坂道をいくつも越えてウラル山脈を走る。切り立った山はなく、大きな丘を越える感じで、しばらく走るとウファの町に入った。牧草地の中に多くの石油井戸があった。バシキリアン共和国は、石油で潤っている。ウファはバシキリアン共和国の主都でイスラム系のバシキリアン人が多く住んでいて、隣のタタリスタン共和国もイスラム系である。

連載第3回 マン島で35年ぶりに涙の同窓会

(別冊モーターサイクリスト 2004年3月号)

ロシア式サウナ「バニャ」

 7月21日、ウラジオストックのオートバイクラブ、リンクス・オブ・アムールのミカに紹介されたイリアスを訪ねた。彼もミカ同様日本から中古バイクを輸入して販売し、日本へも買い付けに何度か行っており、自宅へ泊まるように強く勧めてくれた。彼の家はロシアの平均的な勤め人が住む、郊外にある団地の10階建てアパートで、空き地では子供たちが元気よく走り回っている。家では彼の奥さんとお父さんが迎えてくれた。中へ入ると決して広いとは言えず、泊めてくれると言う彼の好意に心から感謝をした。軽い夕食をした後、バニャ(ロシアのサウナ)に入ろう、ということになり彼の友人の家を車で訪ねた。

 ボルガ川に沿ったその家には広い菜園があり、ジャガイモなどの主食からトマト、キャベツの野菜類、ブルーベリーなどの果物を栽培し、鶏まで飼っている。現金収入が少ないので、食べ物はほとんど自分で作っていると言う。庭の一隅にある大きな物置のような建物がバニャであった。裸になって入るのは日本のサウナと同じだ。体が温まったころに木の台の上に横になり、白樺の枝を束ねたもので体をたたくと葉の匂いがなんとも言えず心地よく香る。たたくことで体に適当な刺激を与え、血行が良くなるのだ。順番に交代で相手をたたき合い、熱くなると隣の部屋で体を冷ますのを4回ほど繰り返して、最後に体を洗って終わりとなる。

 その日はチェリアビンスクからウファまで、ウラル山脈越えを含め550kmを走ったので、サウナから出たときはさすがにクタクタだったが、奥さんが食事を用意してくれていてビールとボルシチとパン、それに自家製の強い地酒までご馳走になった。イリアスの家に戻って居間のソファで寝たのは午前2時だった。

 ロシアにいる間に1度は本場のバニャへ入ってみたかったので、貴重な体験をさせてもらったイリアスに心からお礼を言った。

 翌日、イリアスのバイク仲間たちが集まってくれた。みんな日本のバイクを持ち、何かあると互いに声を掛け合って集まるという。日本人がシベリアをバイクで越えてきたことをテレビ局とラジオ局が取材をするというので、20人ぐらいが集まってくれた。カフェバーでインタビューを受けたあと、全員で町中をツーリングする様子を撮影した。

ロシアの首都モスクワへ

 モスクワが近づくと道路標識がロシア語と英語の併記になり、道路も良くなって交通量も増えてきた。この夜はモスクワの手前190kmほどのところにある、12世紀にウラジミール・スヅダリ公国の首都だった歴史的な町、ウラジミールに泊まった。この町は今まで走ってきたロシアとは全く違って、手入れの行き届いた奇麗な歴史建築の町並みに驚かされた。

 翌日7月28日にモスクワへ向かった。走行中、何か霧が深いと思ったら臭いがある。どうも煙のようだ。しばらく走ると道路の両側が燃えているではないか。今年は雨が少なく気温が高いために夏中燃えていたという。このあたりは泥炭層が地表にまで出ているので森の木だけではなく地面までが燃えてしまい、簡単に消火できないのだ。

 路上には、スイカなどの果物や雑貨品を売る出店が増え、いつしかビルの多いモスクワ市内に入っていった。町の中心部へ行くことは割合容易だった。

 モスクワの中心地クレムリンに着いたのは正午をまわったころだ。無事ここまで来られたとホッとする間もなく、ボリショイ劇場の前の赤信号で止まっていると、警察官が近寄ってきて「ドクメント(書類)」と言う。パスポートを見せると、今度はバイクを指さしながらまた「ドクメント」と言う。それでバイクの通関書を見せるが、まだ不十分だと言う。何を見せると言うのか、と強い口調で聞き返し、パスポートと通関書を警官から取り戻した。するとその警官は交通整理に戻って行ったのだが、ロシアはどこへ行っても検問所が多い。多い日は3回から4回警官に止められることがある。

若者の夢は日本製のスーパースポーツバイクやクルーザーに乗ることで、ここはお互いの情報を交換する場となっている。バイクは半分以上がウラルをクルーザーに改造したもの
週末にモスクワ大学に集まるモスクワのモーターサイクルファン。女性ユーザーもスクーターでやって来ておめかしをしていた

 バイクを止めて三脚を出し、ボリショイ劇場をバックにモスクワ到着の記念写真をじっくり撮った。ホテルのチェックインにはまだ早かったので「赤の広場」へ回ると、夏の観光シーズンでさまざまな国の観光客が大勢来ていた。道を挟んだ向かい側に今晩泊まる国営のホテルロシアがある。21階建、客室5500室は世界最大のホテルだ。東西南北に4カ所のロビーがあるので、入口を間違えると部屋にたどりつくまでひと苦労である。1泊1600ルーブル(約6400円)は、モスクワの西側資本の入ったホテルに比べると安いが、サービスもロシア国営のサービスを覚悟する必要がある。

ロシアの首都モスクワの“赤の広場”に到着。三脚を使って記念撮影

 夜は、ヤマハの市場開拓事業部のスタッフの皆さんに歓迎され、日本を出て以来初めての日本食を口にした。現役のとき一緒に仕事をした人たちで気心が知れており、本当にリラックスでき、おかげで疲れも吹き飛んだ。モスクワは日本食ブームで、ロシア料理のレストランでも前菜のメニューに刺身や寿司があるほどだ。

モスクワの地下鉄

 翌日、モスクワ市内にあるヤマハ代理店へ挨拶に行き、バイクを預かってもらい、しばらく公共の交通機関を使うことにした。地下鉄は10回券の切符が40ルーブル(160円)だった。1回改札を通ると距離に関係なくどこまで行っても1回は1回である。駅ごとに天井や壁のデザインが異なり、まるで美術館にいるようで、1駅ごとに地下鉄から降りて壁や天井のデザインを楽しんだ。エスカレーターが非常に長く、1本のエスカレーターで100mほども地下にもぐっていく。地下のエスカレーターの上り口に必ず監視ボックスがあって、そのボックスの中に制服を着た女性が一人座って安全を確認していた。

 プラットホームでビデオを撮っていると、写真を撮らないように、と一般の人から注意を受けた。こんな注意はロシアに来て初めてだ。ソ連時代は地下鉄が防空壕の役割をする軍事施設のひとつだったので、当時は撮影禁止だったのだろうか。

 モスクワの幹線道路は3車線から6車線と広い。そこをベンツ、BMWなどの西ヨーロッパの高級車がたくさん走っていた。ここまで来ると日本車は少ない。ラッシュ時には、ここが交通渋滞になる。2輪雑誌の編集長の話ではモスクワの900万人の人口に対し、400万台の車があるそうだ。モスクワ市内は歴史的な建造物が残された綺麗な町並みで、人々のモダンな服装からも生活全体に豊かさが感じとられた。編集長から取材を受け、週末は自宅に招かれた。彼はモスクワ市内から30kmほど離れた郊外の森の中の邸宅に住んでいて、周囲には彼の家のような豪邸が木立に囲まれて森の中に点在していた。新築中の家も数多く見られ、建築ラッシュのようだった。ロシアでは富がモスクワに集中して、地方との格差が大きいことがあらゆる面で歴然としている。彼の場合は、親が政府の役人で昔からこの地域に住んでいたそうだ。住宅の外には広い草原と森があり、オフロードバイクで週末を楽しむ姿が見られ、余裕を持った生活を楽しんでいる人が大勢いた。夜のバーベキューパーティーでは50人ほどの客が入れ替わり立ち替わりやって来て、編集長は来る人々に私を紹介してくれた。

 モスクワに入る前は、モスクワが危険な都市だという先入観をもっていた。理由はワールドカップでロシアが日本に負けて予選落ちしたときに、市内暴動が起こって日本人観光客が襲われたというニュースが日本に広がっていたからだ。また、ウラジオストックからしばらく一緒に旅をしたスイス人のマーチン夫妻が、モスクワは危険だから行かないと言っていたからでもある。しかし、一般の市民が普通に生活をしている範囲では特に危険は感じられなかった。

ロシアからフィンランドへ

 8月6日にモスクワを出て、歴史のあるノブゴロド、サンクトペテルブルグの町を通過した。フィンランドとの国境まで150kmである。

 7、8月の混み合う観光シーズンは、国境を越えるのに6時間ぐらい待たされる、とロシア人から聞いていたので、混雑する昼間を避けるために、国境まで10kmほど手前にあるガソリンスタンドに隣接するホテルに泊まることにした。35年前にフィンランドからロシアへの国境を越えようとしたときは、ほとんど国境を通る人がいなかったことを思い出す。今は大がかりな移民局と税関施設ができ、昔の面影は全くない。

 翌早朝5時に起床し、まだ暗いうちに宿を出た。さすがに早朝の国境には10台ほどの車しか並んでいない。ロシアからの出国はパスポートの提出と入国時にもらったバイクの通関書を提出することが義務づけられている。この通関書を紛失すると、ロイヤルスターをロシアから持ち出せなくなるのだ。途中の警察の検問でも、できるだけ見せないようにしたのはそのためだった。訳の分からない警察官に取り上げられでもしたら、今回の旅の目的のひとつである国境越えができなくなるかもしれなかったのだ。通関書を国境の税関官吏に提出すると、彼が車体ナンバーの照合をし、ロシアの出国はこれで無事完了だった。そしてフィンランドの入国だが、これは簡単だった。ビザは不要でバイクチェックもない。これでは逆に出国時にトラブルになるとまずいと思い、バイクの通関はどうなのかと聞くと、自分の物なら手続きは何も必要ないだろうと言われ、拍子抜けしてしまった。8月10日、ウラジオストックから上陸して48日目のことで、走行距離は1万kmを越えていた。

’02年8月10日。7、8月の観光シーズンは国境越えの観光客でごった返し、長いときは6時間も待たされると聞いた。早朝、日の出とともに国境へ。ロシア側からフィンランドを見たところ。

 35年前の同じ8月10日、ひたすら走り続けて到達したフィンランドから旧ソ連への入国を無下にも拒否された事が改めて思い出され、感無量であった。当時、日本人が大陸を走るには北アメリカへ船で渡って走り始めるか、あるいはインドまで船で渡ってユーラシア大陸を走り始めるしか方法がなかった。今回のように日本海を船でロシアへ渡り、ユーラシア大陸を走ってヨーロッパまで来られるなどとは当時は夢のまた夢であった。35年という年月が本当に長かったと、改めて実感した。

’67年8月10日。フィンランド側から旧ソ連側を見たところ。ほとんど国境を越える人はなく静かなものであった。

35年ぶりの同窓会

 ’01年の夏のことである。ドイツ人の友人ヘルマン・シュタイナーから、イギリスのマン島で同窓会をやりたいという連絡を突然もらった。ヘルマンとは、’67年の冬から夏にかけて滞在したドイツ南部の村で知り合った。当時私は人口100人ほどの小さなその村に滞在し、森で樵(きこり)として働きながら旅の資金を補充していたが、そのときバイクに乗った日本人が村に滞在していることを聞きつけて、近くの村から訪ねてきたのがヘルマンだった。バイク好きに国境はない。その後、週末になると彼の友達も加わって、バイクで走るにはもってこいのカーブが続く深い森の中の道を、ツーリングして楽しむようになっていた。鹿やウサギ、リスの住む森の中をまさに自然と一体になって風を切って楽しんだ。

 5月になって、イギリスのマン島で行われるワールドGPを見に行こうという話が持ち上がり、ドイツの村を出発した。ドーバー海峡をフェリーで越えてウェールズでヘルマンの友達ヘイドンほか、数人のイギリス人も加わり、リバプール経由でマン島に入った。マン島ではキャンプ場に滞在して、ワールドGPレースを楽しみながら島のあちこちを訪ねた。

 それ以降30数年間、彼らとはクリスマスカードのやり取りだけで一度も顔を合わせていなかったが、当時の仲間のうち既に2人が他界していた。ヘルマンは、今のうちに会っておかないと期を失する、と心配して同窓会を提案してきたのだ。

 ちょうどそのころ、私は翌年’02年1月には還暦を迎え、定年退職する時期であった。還暦という年を機に会社勤めではできなかったことを何かやりたいとかねがね思っていたので、これは絶好のチャンスだった。迷わず、ぜひ行きたいという返事を出した。バイクで行ければバイクで、バイクで行けなければシベリア鉄道か飛行機でもよいと思っていた。

 ’01年の秋、ヘルマンから具体的な日時の連絡が来た。マンクスGPのある8月の最終週、8月25日〜8月31日に同窓会をやりたい、と。

マン島

 マン島はイングランドとアイルランドの間にある周囲が100kmほどの島で、保養地として知られている。地形は丘陵状で、高い所で620mあるために景勝に優れ、土地の半分は耕地だ。昔からバイクのレースでも有名でもある。

 同島には上院と下院からなる独自の議会があり、固有の立法・法律を持ち、通貨も独自のポンドを発行しているがイギリス本土では受け取らないところがあるので要注意だ。

 マン島でのレースは、一般公道を遮断して1周約60kmのコースで争われる。そのコースはとても変化に富んでいて、住宅街や商店街、牧場から山の中までを走る。平地では日が射していても山中では霧がかかって雨ということもあり、気象的にも過酷である。また、コース脇は狭いうえ、石を積んだ塀が多く危険極まりなく、ひとたび転倒すると大事故につながるために、’70年代半ば以降ワールドGPレースは中止になった。現在は6月のTTレースと8月のマンクスGPが毎年開催され、多くのバイクファンを集めている。

 さて、ロシアの横断を終えて気分的には深い満足感に包まれていたが、さすがに60歳を越えて体力を使い切ったのかフィンランドへ入って以降、しばらく疲労感を引きずっていた。ヘルシンキで2日、エストニアで1日休みを取り、その後ものんびり進んでいた。

 エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国はロシアより北欧に近い感じの国々で、幹線道路脇にEU加盟のプロモーション看板があちこちに見られた。のんびり進んでいたためにマン島に8月24日到着が厳しくなり、その後4日間は毎日500km以上を走るはめになってしまった。

 ポーランドからドイツへ入った。ドイツ東部はこの夏、集中豪雨であちこちの川が氾濫していた。アウトバーンは高いところに建設されており、ロイヤルスターの走行に支障はなかったが、ドレスデンも町を流れるエルベ川が氾濫して町中が水浸しになっており、大変な状況であった。

いざ上陸

 8月24日、フランスのカレーからフェリーでドーバー海峡を渡りロンドン経由でリバプールに到着した。そこからマン島のダグラスへのフェリーの出発予定時刻は午後6時だったが、結局出航は遅れに遅れて夜中の0時を回っていた。船中では客室のシートに座って体を休め、ダグラスの港でフェリーを降りたのは午前3時頃だった。

 ヘルマンと再会を約束した場所は、35年前に滞在したヒルベリーにあるグレン・ドゥー・ファームのキャンプ場だ。彼からは、飛行場まで迎えに行くから便名を知らせてほしい、という連絡が来ていたが、私は以前に滞在したキャンプ場なら分かるのでそこまでは自分で行ける、と返事を出しておいたのだ。彼は、まさか私がバイクでロシアを走って来るとは思っていないだろう。35年前に日本からバイクでやってきたと聞いてびっくりしていた彼の若い顔を思い浮かべながら、見覚えのあるダグラスの海岸通りを過ぎてオンチャの町の丘を登って行く。

 35年前の記憶と地図を頼りに探すが、以前より別荘の数が増えていて、看板がなかなか見つからなかった。何とかキャンプ場へ入ったのは午前4時ごろだった。テントが沢山並んで静まりかえっている。ロイヤルスターのエンジンを止めて、月明かりで辺りを見回した。驚いたことにキャンプ場の中は35年前と全く変わっていなかった。静かに空きスペースを探して荷物を下ろし、テントを張って寝袋にもぐり込み手足を思いっきり伸ばす。こんな幸せは無いと思った。

マン島で1週間滞在したグレン・ドゥー・ファームのキャンプ場。35年前と同じ場所にテントを張った

 ひと寝入りして目が覚めたのは午前8時だ。起きだして周りを見ると、あちこちで朝食の支度をしている。隣にテントを張った人が声をかけてくれ、温かい紅茶をご馳走してくれた。彼は、昨日ドイツ人が日本人を探していたこと、その日本人とはあなたのことに間違いないと言った。キャンプ場の真ん中に駐車場があり、その駐車場の向こう側の3つあるテントのどれかにそのドイツ人が泊まっていることを教えてくれた。さらに彼は大声で呼べば飛び出してくるよ、と言ってくれた。すぐにでもそうしたかったが、それでは他の人まで起こしてしまうことになる。高ぶる気持ちを抑え、もうしばらく待つことにした。紅茶の礼を言って、キャンプ場全体を見ておこうと歩き始めた。すると先ほどの3つのテントのひとつからヘルマンに似た感じの人が起き出してきた。ヘルマンは若いときのバイク事故で左右の足の長さが3cmも違うため歩き方に特徴があった。髪はだいぶ薄くなっていたが歩き方に特徴がある。まさしくヘルマンであった。

「ヘルマン!」思わず大きな声で呼んだ。

「シゲル!」彼は答えた。

 お互いに近寄って硬い握手を交わす。しばらく2人とも言葉にならない。

 ウラジオストックからバイクでロシアを走って来たこと、フェリーが遅れて今朝早くにここへ着いたことを話すと、彼は涙を流して喜んでくれた。その喜ぶ顔を見ながら、やはりバイクで来て良かった、と改めてうれしさがこみ上げてきた。

 その日の夕方、1日遅れでダグラスに到着するイギリス人のヘイドンを2人で港まで迎えに行った。昨日と同じ便だがこれもまた2時間遅れの午後10時半に到着し、薄暗い中、港での再会となった。ヘイドンの髪はスキンヘッドに近く白髪になっているが、素顔は昔と変わらない。すぐに彼だとわかった。ヘイドンは昔はノートンに乗っていたが、今回はBMWに乗ってきた。一方、ヘルマンは昔はBMWに乗っていたが、現在はヤマハのTR1に乗っていて、聞けばTR1を3台も持っているのだそうだ。それだけ絶大な信頼を置いているのである。35年前はアウトバーンを走るたびに、私の乗っていた250ccのYDS-Ⅲを指差して、180km/h出ないようなバイクはバイクではない、と日本製バイクを酷評していたものだが、変われば変わるものだ。今では日本車の虜(とりこ)になっているのだ。

35年前の3人。’67年6月10日。現在は危険すぎるということで中止されているワールドGPを観戦。左から3人目ヘルマン。4人目ヘイドン
1914年製のハンバー(HUMBER)。ベルトドライブ、クラッチなし。今回マン島で出会った実動車では一番古いバイクだった。持ち主は同じキャンプ場に滞在していた
1924年式ブラフシューペリア。持ち主は同じキャンプ場に滞在していたイギリス人。アイドリングの音と外にむき出しのバルブスプリングの動きは正に芸術品
8月30日、雨の合間を見てグレン・ドゥー・ファームのキャンプ場を、友達になった人々に見送られて出発
マン島の表玄関、ダグラスの海岸通りにあるメインストリート。左から吉田、ヘルマン、ヘイドン
マン島の公道を遮断して作る一周約60kmのレースコース中、海抜600mの最高地点

連載第4回 2輪の歴史200年のヨーロッパを巡る

(別冊モーターサイクリスト 2004年4月号)

ヤマハモーターヨーロッパ(YMENV)で大歓迎。従業員のルディー氏は前回私が使用したのと同じモデルYDS-Ⅲを記念撮影のためにわざわざ持ってきてくれた

タイムスリップ

 マン島TTは、レースのない日はレースコースを走れるので、3人で昔の記憶をたどって島のあちこちを走り回った。ワールドGPレースを見たマウンテンコースの石垣の上に登り、35年前に食事をしたクレックニ・バーで食事。ダグラスベイに沿った海岸通りではヨーロッパ各国から集まったクラシックバイクを見て、持ち主の自慢話を聞いたりしていた。

 滞在したキャンプ場にも驚くほど古いバイクの持ち主が滞在していた。1914(大正3)年のハンバー、1924(大正13)年のブラフシューペリアの2台はエンジンがかかり実際に走るのだ。マン島全体が博物館のようである。海岸通りにレール馬車が走っているのも35年前と変わらない。

 キャンプ場では1週間テントに寝袋であったが、不思議なくらいによく眠れ、ロシアから引きずっていた疲れはすっかり取れていた。

 マン島からの帰りのフェリーは満杯で、何とか予約が取れたのは8月31日の臨時便で、午前4時出港であった。

 29日から降り出した雨は30日夕方にやっと小降りになった。その後どう天候が変わるかわからなかったので、今のうちにテントをたたみダグラス港へ行き、フェリーの出発ロビーで仮眠をしたほうがよいということになった。最初の4日間はマン島にしては珍しく晴れて天候に恵まれたので、最後の1日くらいは雨でも我慢しなければならないだろう。

 午後7時にフェリーの出発ロビーに行くと、すでに大勢の人が待っていた。空いている席を確保して眠れぬ一夜を明かしたが、午前4時の便は出港がまた3時間遅れ、実際にフェリーがダグラスの港を離れたのは夜も明けた午前7時であった。イギリスに住むには、よほどの忍耐力が必要である。

 マン島で過ごした1週間は、まるでタイムスリップして今の年齢を忘れ’67年に戻ったようだった。イギリスは石の文化で、それは物を大切にする文化でもある。キャンプ場が35年前と変わらないのも驚きだったが、島全体を見ると、家は増えたが昔の家も相変わらず大事に使っており、道の両側に積まれた石垣はまったく変わっていない。

 そこで35年間も会わなかったバイク仲間と再会し、ともに過ごした1週間は、当時の年齢25歳に戻った時間であった。次にいつまた会えるかわからないが、元気でさえいれば必ず会える、そのときを楽しみにしながら、マン島を後にした。

マン島の1ポンド紙幣、約200円である。中央部分に有名なマン島のマークが、右側にはクイーンエリザベスの若いころの顔が付されている。マン島以外では使えない店があるので要注意である

ユーロトンネル

 9月2日、イギリスからドーバー海峡をユーロトンネルで越えた。

 ユーロトンネルの中は、自動車やバイクで走り抜けることはできない。トンネル内は列車だけが行き来しており、その貨車にバイクや自動車を載せ、人間もその貨車に乗って一緒に海峡を渡るようになっているのだ。

 ゲートで92.5ポンド(約1万8000円)の切符を買った。信号に従って進み、そのままプラットホームに出ると、背の高い銀色の貨車が止まっていた。

 貨車の横腹には大きな出入り口があり、そこからロイヤルスターを運転して中に入ると、貨車ごとの仕切りが取れて前方へ開いており、貨車そのものがまるでトンネルのようである。貨車内の主な所には係員が立っていて、指示を与えてくれるので、自動車もバイクも整然と前方に詰めていくことができた。

 貨車は半分も埋まらずガラガラだったが、開いていた貨車間の仕切りが閉まり、しばらくすると出発となった。この列車には客室はなく、バイクのそばで立ったまま移動時間を過ごすことになった。ほかにバイクの旅行者が4人いたが、彼らもバイクに跨がったり、横に立つなどしていた。クルマの場合は、自分のクルマの座席に座ったままである。

ユーロトンネルは列車(貨車、客車)が通っていて、道路ではない。バイクも自動車も乗ったまま貨車に乗り込むのだ

 列車は25分ほどでフランスのカレーのホームに着いた。ちなみに、マン島に行くとき乗ったフェリーは124ユーロ50(約1万4000円)で、ユーロトンネルに比べると多少割安だった。

 ドーバー海峡を越えてフランスへ入国し、カレーからハイウェイA26でパリへ向かって、250kmほど走った。ヨーロッパへ入って初めての有料道路である。料金は250km走って10ユーロ(約1200円)と、日本の東名高速道路の4分の1程度の料金で、とても安い。それでも無料のアウトバーンを走り慣れているドイツ人のヘルマンは、「フランスのハイウェイは高い」と言い、フランスを通らずにすむように、イギリスからオランダへ直接渡るフェリーに乗り、ドイツへ帰って行った。

 その日は、ハイウェイのレストエリア内にあるホテルに泊まった。ヨーロッパにはこういったホテルが多いので、街なかを走りまわってホテルを探さないですみ、大変助かる。

点線のルートは前号でポーランドからドイツ経由でマン島へ向かったルートで、途中VWとヤマハモータージャーマニーに立ち寄った。実線のルートは、マン島を出発後、西ヨーロッパを走行したルートだ。ヨーロッパは9月に入るとすっかり秋らしくなって、朝夕は肌寒くなった。

思わぬ大歓迎

 9月3日、ヤマハフランス駐在の森本駐在員と約束の待ち合わせ場所、シャルルドゴールエアポートで落ち合い、そこから彼のクルマの後について30kmほど離れたヤマハフランスへ向かった。

 愛車のロイヤルスターを正面玄関に止めてドアを開けると、なんとヤマハフランス社長のオリビエさんが迎えてくれていた。そして彼の後ろには全社員が控え、盛大な拍手で迎えてくれたのである。あまりの大歓迎にびっくりである。

ヤマハモーターフランス(YMF)で大歓迎を受ける。オリビエ社長は37年前の世界一周のときに、ソノート(YMFの前身)で会って以来の友人で、特別喜んでくれた

 オリビエさんとは前回の世界一周以来の、古い付き合いだ。

 オリビエさんが社員に私を紹介したあと、私は用意してあった地図に旅の経路を記入して、今までの旅の様子を報告した。そして記念にと、素晴らしい盾と古いフランスのオートバイ雑誌モトレビューの表紙のカラーコピーを立派な額に入れて、社員の前で渡してくれた。その雑誌の表紙には、35年前に私がパリに立ち寄ったときの私とバイク(YDS-Ⅲ)の姿が載っており、その雑誌を大切に保管しているオリビエさんに心から感謝をした。

YMFの従業員に、今回のロシア横断について報告
YMFの従業員の前で、オリビエさんから表彰の盾を受け取った

 その後、社員全員が、シャンペンの乾杯で祝ってくれた。オリビエさんは、あの過酷なラリーとして知られるパリ・ダカールラリーに自ら出場し、何度も上位入賞を果たしていた一流のライダーであり、フランスのモータースポーツの発展に多大な貢献をしてきた人だ。また、社長に就いた今も通勤にはバイクを使用し、ニューモデルが出ると、自らが先頭に立ち、社員を引き連れて試乗にでかけるなど、バイクに乗る価値観を最優先に置いている人物である。

 歓迎会の後、昼食をとりながらオリビエさんは彼のバイクに対する熱い思いを話してくれた。

 社員みんなが常に積極的に仕事に取り組むためには、社長である彼自身が常にチャレンジスピリッツを持ち続けなければならない。そのために通勤にもバイクを使い、ニューモデルが出ると社員を引き連れて試乗にも行き、自らを奮い立たせるとともに、社員にチャレンジスピリッツを植え付ける。今日私が到着したとき、社員全員を集めて歓迎したのも社員にチャレンジスピリッツを共有させたかったからだ、と言ってくれた。

YMFの前のロイヤルスター。シベリアの転倒でフォグランプがもぎ取れた以外はきれいなものだ

 その後、フランスのサンカンタン、オランダのアムステルダムにあるヤマハの海外工場や海外代理店を訪ねたが、ヤマハフランスと同じような大歓迎を受けた。

2000年にヤマハコミュニケーションプラザを訪問してくれたロブ&ダフネ夫妻と2年ぶりに再会
ロブ&ダフネ夫妻とダフネの両親
ヤマハモータージャーマニー(YMG)のスタッフ。左からふたり目は役員のバイエ氏。彼とも37年前の世界一周で会って以来の友人

2輪の歴史200年の博物館を巡る

 9月11日、ベルギーのジーブルグからアメリカ東岸へ運ぶ船に乗せるため、船会社へ自走していった。その船は、9月14日に出航後、大西洋を越え、10日後の9月23日にはニュージャージーのニューワーク港に到着する予定である。私は23日にアムステルダムからニューワークへ、飛行機で移動することにした。

 アムステルダムを出発するまでの11日間、時間があったので、ドイツにある博物館をできるだけ沢山まわって2輪の歴史情報を収集することにした。これは日本を出発する前からの計画で、2輪の歴史の長いヨーロッパでできるだけ多くの情報を収集したかったのだ。

 アムステルダムにあるヤマハヨーロッパでアウトバーンを楽に走れるFJR1300を借り、それに乗って博物館を巡ることにした。FJR1300のライディングポジションは、私の年齢でも長距離走行で背中が痛くなることもない適度な前傾姿勢で、速度に応じて角度を調整できるウインドシールドも相まって、アウトバーンでは150〜200km/hで安定して走れ、とても快適であった。

9月11日に愛車ロイヤルスターをアメリカ東岸へ送ったため、YMENVよりFJR1300を借用。10日間で、オランダ、ドイツをミュージアム巡りで約3000km走った

 3車線のアウトバーンの場合、1番右の低速車用の車線は主に大型トラックが走行しその速度は100〜110km/h、中間の車線は130km/h以上、一番左の追い越し車線では180km/h以上という驚きのスピードで流れている。荷物をたくさん積んだロイヤルスターでは、がんばって130〜140km/h出して中間の車線を走ろうとしても、それはその車線の中では遅めのスピードで、後ろを気にしながら走ることになっていたから、それに比べるとFJR1300は快適このうえなかった。

 まず、ハイデルベルグに近いネッカー川とウルム川の合流点にある町、ネッカースウルムにあるNSUの2輪博物館を訪ねた。入場料は大人4ユーロ(約500円)。14世紀に建てられた城をそのまま博物館として利用しており、これは古いものを大切にするドイツ人気質がにじみ出ているといえるものだ。

ドイツ、ネッカースウルム(NSU)にある2輪博物館。2輪発想初期から現在までをわかりやすく展示している。私が見たなかでは最も優れた2輪博物館だ。ちなみに、2輪の原点は子どもの木馬のような1791年頃のものであるといわれている

 中に入ると、世界の2輪の歴史に関する350点に上る豊富な展示物と各種資料が迎えてくれた。ヨーロッパの2輪の歴史は、カジなし(ハンドルが切れない)、ペダルなし(足で地面を蹴って進む)の自転車が、産業革命の初期である18世紀後半にフランスで考案され、それから始まっているものである。NSU2輪博物館の展示は地味であるが、見るだけでなく触ったり、乗ったりできるシミュレーターもあって来館者を飽きさせない。

NSU2輪博物館。1817年に作られたカジ付き足蹴りタイプの木製2輪車

 圧巻は、前輪が2mもある1870年代の自転車である。これは跨がることができ、実際に乗れる。このNSU2輪博物館は2輪発想初期から現在までをわかりやすく展示している、世界で最も優れた2輪博物館だ。

NSU2輪博物館。世界最初の量産バイクだが、大クレームを出して消滅。一見してフレームの設計が悪いことに気づく

ベンツ、BMWの博物館

 ネッカースウルムから100kmほど南下するとシュトゥットガルトがある。そこにはメルセデスベンツの本社工場があり、そしてその博物館のある所だ。

 博物館の入り口まではバイクでは行けないので、本社工場の敷地の外にあるバス停から、博物館専用の無料シャトルバスを利用した。「メルセデスベンツ博物館」と表示されたバスに乗って工場の門をくぐり、工場のなかを通って博物館の前で降りる。博物館は本社工場の敷地のまんなかにあった。博物館の入場は無料である。案内をしてくれる受話器型イヤホーンは5ヵ国語が用意されており、日本語案内も無料で借りることができた。

 入ってまず目に入るのが、木製のボディにエンジンの載った2輪車である。1885年、4輪に先駆けてこの2輪が考案され、ここからベンツの歴史が始まったのだ。

 博物館の建物は地味だが、展示物は圧巻である。メインの4輪以外に航空機エンジンや船舶エンジンの展示も見られた。さらに数ある展示の中でも、昭和天皇が使用した1935年製である菊の御紋章の付いたあずき色のメルセデスベンツ770が展示されていたのは印象的だった。

 シュトゥットガルトから300kmほど東へ走ったところにあるミュンヘンには、BMW本社工場と博物館がある。近代的な高層ビルの本社社屋に隣接してある、お椀のような形をしたモダンな建物が博物館であった。

 入り口を入って受付を探したが、人がいない。仕方なくしばらく売店を見ていたのだが、どうやら受付と売店とスナックを、共通のスタッフが担当しているようで、忙しくなると受付まで手がまわらなくなるというわけだ。そのうち受付に来てくれて応対をしてくれたが、受付に人がいないというのは第一印象としては大きなマイナスである。効率を考えての運営なのだろうが、やはりあまりいい気はしない。

 入場料は3ユーロ(約360円)で、ロッカーのデポジットは5ユーロ(約600円)。これはロッカーの鍵を返すと戻ってくる。BMWはドイツの4輪メーカーでは唯一、現在も2輪を積極的に開発製造し、世界へ販売し続けている会社である。

 らせん状の回廊を上りながら展示を見ていくと、最上部には200人ほどを収容するシアターがある。見終わると最上階から長いエスカレーターに乗って1階の受付近くへ降りてくることができる。BMWの博物館のモダンな外観とマッチングした大変近代的な展示は、各種シミュレーターを多数そろえ、訪れる人を飽きさせない工夫をしており、大変な費用を投じた斬新な企画に目をみはった。

ミュンヘンのBMW博物館。R32、1923~1926年製。194cc水平対向2気筒、8.5hp/6kw、3300rpm、最高速:95km/h、駆動:シャフトドライブ

 タイミングよく、ドイツ最大の2輪車ショーである「インターモト」が、ミュンヘンで開催されていた。幕張で行われる東京モーターショーより広いと思われる場所に、世界中から2輪本体を中心にパーツ、アクセサリーの出展が見られた。ここでも地元のBMWはやはり大変元気がよく、展示ブースを使った15分ほどのショーで来館者を楽しませていた。

 ここ40年ほど世界の2輪業界は日本の4社がリードしてきたが、アメリカ、ヨーロッパ勢が再び元気になってきたことをこの旅で強く感じた。また中国、韓国のバイクメーカーの台頭も目覚ましい。日本メーカーは技術的な優位性を絶対譲ってはならないと思った。世界的に見れば2輪の産業は元気で、まだまだ発展の余地を残している。環境対応の要請が強まるなか、軽量という最大の強みを持った2輪の役割は大きいだろう。

フォルクスワーゲンの顧客サービスに驚く

 ベルリンとハノーバーをつなぐアウトバーンの途中、ウォルフスブルグの町にはフォルクスワーゲン(以下VW)の本社工場と、博物館より大きなスケールのテーマパーク「アウトシュタット」がある。

 話は前後するが、ここウォルフスブルグと前述のノイスは前号でマン島に行く途中、ロイヤルスターで立ち寄った所である。

 このテーマパーク「アウトシュタット」には博物館や、子どもと大人が遊べる体験コーナー施設、それにグループ会社のアウディを含め、VW全社の独立したショールームが併設されて1200人の従業員が働いており、その最大の目的はVW社製品の購入者をここに招待し、VIP待遇でもてなすことにあるという。

 ロイヤルスターを駐車場に止めて、まず目に入ったのは2棟の総ガラス張りの高いビルだ。この中に顧客が購入済で受け取る予定の新車がビッシリと800台入っているという。正面を入るとインゴ・ギュンター作の大きな地球儀が回る、広いロビーのまんなかに受付があった。現在、全購入者の約40パーセントが車を取りにここへ来るそうだ。というのも、VW本社まで取りに来るお客さんには、本社から販売店までの輸送コストが割り引かれるのに加え、テーマパーク「アウトシュタット」でのVIP待遇が受けられるからだ。

 2棟の総ガラス張りビルの隣には、実際に購入者に車を引き渡す場所となる、きれいな3階建ての円筒形ビルがある。ビルの中央付近に新車の最終チェックをする立ち入り禁止の場所があり、そこで入念な出荷点検を受けた新車がユーザーに手渡されることになる。

 私が訪れたときにも、電光掲示板にユーザーとなる人の名前が掲示され、にこやかに係員から購入車両についての説明を受けるユーザーの姿が見られた。

 こういった充実した設備や姿勢を見て、膨大な設備投資と多くの社員を投入してお客様満足度ナンバーワンへの取り組みを目指すVWの意気込みが強く感じられた。隣接して高級ホテルのリッツカールトンがあり、これもまたVWのイメージアップを図っているようである。

 VWの博物館にはDKWの2輪車が展示されていた。DKWとは、1920年代に世界一を誇ったバイクメーカーである。VWはDKW、そして1950年代に世界一を誇ったNSUという2社のバイクメーカーを継承しており、BMWと同じようにVWにも世界一を誇った2輪の血が脈々と流れているのだ。

連載最終回 雪のロッキー山脈を越えて旅のゴールへ

(別冊モーターサイクリスト 2004年5月号)

バンクーバーからアメリカ合衆国へ入国してワシントン州、オレゴン州を走ってカリフォルニア州へ入った。カナダの寒さはどこへやら、秋の気候は最高のツーリング日和

アメリカ東海岸に上陸

 9月23日に、オランダのアムステルダムにあるスキポール空港を早朝午前8時20分のフライトで飛び立ち、ヨーロッパを後にした。

 午前10時半、アメリカ東海岸のニューヨーク、マンハッタンに隣接する町ニューワークに到着した。これは実質7時間のフライト時間だったのだが、時差5時間を引いた結果だ。

 ニューワークは久しぶりなので、できるだけ早く着いてその日泊まるホテルを決めることと、ロイヤルスターの乗った船を船会社へ確認して状況把握をしたかった。空港の到着ロビーから、すぐ近くのホテルへ電話を入れると、すぐにシャトルバスが迎えに来てくれた。アメリカはなんでも大変便利にできている。午後1時にはチェックインである。さっそく船会社に電話を入れると、すでに船は到着しており、今日中に積み荷を降ろすので明日には引き渡せるという。ホテルから飛行場を挟んで東側がニューワーク港だ。すぐ近くで本当に助かる。アライバルノーティス(船荷到着通知)をくれた船会社には、自分で通関手続きをする旨を伝え、税関の住所と朝10時以降に行くと良いというアドバイスをもらった。

 翌日、必要書類を持ってタクシーで税関へ向かい、通関窓口を探し訪ねるとそこには3人の太った黒人女性が座っていた。到着したのは午前9時30分。まだ早いのかコーヒーを飲みながらドーナツを食べている人がいた。その一人にバイクを通関したい趣旨を説明すると、パスポートとロイヤルスターの登録証を元に用紙を準備してくれ、モノモノしい税関の判を押して、わずか15分ほどで手続きは終了した。3日間もかかったウラジオストックでの通関とは比較にならないほど早い。

 車で5分ほどのところが、港に面した船会社のストックヤードになっており、ゲートの近くにすでに船から降ろされたロイヤルスターが目に留まった。船会社の事務所に入り税関で準備してくれた用紙を見せると、ロイヤルスターのところで車体ナンバーを照合し、これで持ち出しOKである。船積み時に取り外しておいた国際ナンバーを再び取り付けて、ストックヤードから外へ出た。まず最初にガソリンスタンドへ寄ってタンクを満タンにする。4ガロン(約15.2ℓ)で6ドル(約720円)だった。アメリカではリッター40~50円で、この値段はヨーロッパの3分の1から4分の1である。

 ベルギーのジーブルグにある船会社にロイヤルスターを渡してから、わずか約2週間で大西洋を渡り、アメリカ東海岸で受け取ることができたのは驚異のスピードである。その大きな理由のひとつは、バイクを梱包しないで済んだことにある。バイクに合わせた木枠を作るだけでも1週間近く時間がかかるうえ、梱包を運ぶ余分なコストがかかってしまうからだ。私の使った船会社は、自動車輸送専用船を使用するために、バイクを梱包せずに裸で載せてくれたのだ。

グランドゼロを訪れる

 午後から2時間ほどかけてバイクの点検をして、アメリカ大陸横断に備えた。ここニューワークからニューヨークのマンハッタンまではハドソン川を挟んで目と鼻の先である。マンハッタンには37年前に4カ月ほど滞在し、デパートで商品を倉庫から売場へ運ぶ仕事をして旅の資金補充をしていた。そのときYDS-Ⅲで走り回ったのが、ハドソン川をホランドトンネルで越えたマンハッタン側のグリニッチビレッジ周辺だった。

 実走による点検確認も兼ねてマンハッタンのグランドゼロを訪ねた。ここは2001年の9月11日、例の9.11テロに破壊されたワールドトレードセンター跡地で、アメリカへ入国したら最初に訪問しようと決めていたところである。ホテルからハイウェイ9番に乗り、ハドソン川をくぐるホランドトンネルに向かった。道幅は狭く路面は傷んで37年前を思い出させる。周りの雰囲気もあまり変わっていない。午後3時だというのにクルマがビッシリ詰まっており、その数はますます増えていた。トンネルの入り口で5ドル(約600円)を払うと、いよいよマンハッタンである。ここは37年前にはすでにワールドトレードセンターをはじめエンパイアステートビルそのほかのビルの林立もあり、当時日本から行った私は、イヤというほどアメリカの豊かさを見せつけられたものだった。

 ロイヤルスターを車道の右端に止めたまま、呆然と立ち尽くしてしまった。ワールドトレードセンターがないのである。あるべき物がないのは大変な衝撃だ。ここで3000人以上の命が失われたことを思うと、テロは遠い世界のことではないと感じた。周囲のビルにも傷跡が残っており、ビルの壁一面いっぱいに大きく次のような言葉が書かれていたのが印象的だった。The human spirit is not measured by the size of the act but by the size of the heart.(訳:人の精神はその人の行い以上にその人の思いやりで測られるべきである)。被災者を捜す手紙やTシャツに名前を書いたものなど色々な物が壁に貼られていた。その一つ一つに家族の思いが込められているようで、おろそかにできないものばかりであった。それらを夢中で見ているうちに、いつのまにかあたりが薄暗くなったので、ホテルへ戻ることにした。

ニューヨーク・マンハッタン・ワールドトレードセンター跡地。’01年9月11日、テロに襲われ3000人以上の犠牲者を出した。家族を捜すメモ類が生々しく壁に貼られていた

アーミッシュカントリーを行く

 9月25日、いよいよ今回の旅で最後となる北米大陸横断のスタートだ。ルート80で一路西へ西へと進む。ニュージャージー州を50マイル(約80km)も走るとペンシルバニア州に入る。ハイウェイの制限速度は時速65マイル(約104km/h)だが、実際のクルマの流れは時速70〜75マイル(112〜120km/h)である。中央分離帯が広く、両側のグリーンベルトも十分広く取ってあるためかスピード感がない。トラックはほとんどが長さ25mほどもある大型トレーラーで、全体の流れにのって走っているが、なかには時速75マイル(120km/h)を超えてクルマを追い越していくものもあってとても驚いた。ドイツのアウトバーンではトラックは100km/h制限のため、例外なく右側を一列におとなしく走っていたからだ。

 アパラチアン山脈を越えて、いつしか道はアメリカの穀倉地帯へ入った。トウモロコシ畑、大豆畑が延々と続く。オハイオ州に入ってハイウェイをはずれローカルの道を走った。あのアーミッシュが今どのように暮らしているのか知りたくて、彼らが多く住んでいる地域を訪ねた。アーミッシュとは、この地域に昔から住んでいる信仰グループで、移動手段として昔ながらの馬車に乗り、大型農機具を使わず鋤(すき)と馬の力で畑を耕し、電気も使わない。自然にやさしい生活を送っている人々である。37年前にここを走ったときに彼らの生活ぶりが目に留まった。何か地元の人々が彼らを変人扱いしているように映ったからである。自然に最もやさしいと思われる生活を送っている彼らが生活を追われていないかと、とても心配だったのだ。

 トウモロコシ畑の中を走るローカルの道を行くと田舎町に出た。町のスーパーに、丸太を10mほど渡して馬車を何台も止められるようになっており、黒塗りのアーミッシュの馬車が止まっていた。見ていると、もう1台、黒い服を着た親子連れの馬車がやってきた。カメラを向けると子どもが微笑んで手を振ってくれ、お父さんもニッコリとしてくれた。その後から中世を思わせる服装の女性がひとり、馬車を繰ってやってきた。この町にあるほかの店も見渡してみたが、郵便局はじめ多くの店に彼らが安心して馬車を止められるようにと馬止めが設けられている。町の交差点を見ると、赤信号で馬車が1台止まっており、交差する道を大型トレーラーが馬を気遣うようにゆっくりと走っていた。以前に比べるとアーミッシュの数は増えて、町の人ともうまく暮らしているようだった。町の人が自然を大切にする彼らを見る目が変わったのだ。一安心である。

ペンシルバニア、オハイオに住むアーミッシュ。クルマを使わず、いまだに馬車を日常の足に使い、トラクターを使わず鋤(すき)や鍬(くわ)で畑を耕す宗教グループ。アメリカで自然にやさしい生活をしている人々。37年前は一般の人々からは変人扱いを受けていたが、今は大事にされ人数も増えて数万人はいるといわれている

アメリカからカナダへ

 心温まる気持ちで先へ進む。オハイオ州、インディアナ州、イリノイ州を通り、ウィスコンシン州のミルウォーキーへ入る。

 ミルウォーキーは、ビールとハーレー・ダビッドソン(以下H・D)で知られる町だ。H・Dは現在世界中で最も元気なバイクメーカーである。25年前、私がヤマハ発動機の駐在員としてロサンゼルスに来た当時、H・Dは倒産寸前の状況だった。25年後、現在のH・Dを予測した人はアメリカ人の中にもいなかったはずだ。

 町が近づくとハイウェイを走るH・Dを見かけるようになったが、ライダーがヘルメットをかぶっていない。バンダナで髪を押さえるか、革のハンチングをかぶるか、または何もかぶらずに髪を風になびかせている。州によって交通ルールが異なるアメリカでは、ヘルメットをかぶらないと違反になる州と、あくまでもリコメンド(ヘルメット着用を勧める)の州とがあるのだ。ヘルメットをかぶったほうが安全なことは確かだが、それでも全国一律にかぶらないと違反だと決めつけないのがアメリカという国なのである。

 ミルウォーキーからミネソタ州、ノースダコタ州を通り、10月2日、カナダのウィニペッグに入った。日本をたったのは初夏だったが、いつの間にか夏を過ぎて秋になってしまっており、北緯50度のカナダでは、朝晩は水点下まで冷える季節になっていた。畑では、とうもろこし、大豆、ひまわりの種や牧草もほとんど刈り終えて、わずかに残ったところを大型トラクターで刈り取る姿が見られた。

駐在員時代に一緒に仕事をしたゴーディ・メッツとミネアポリスで12年ぶりに再会した。彼は若いころから通勤にバイクを使用する大のバイクファンで、うれしいことに今もロードスターを日常の足にしている

87歳までバイクに乗っていたカナダの友人

 今回カナダへ回ったのは、カルガリーにいた友人ウォールト・ヒーリーの墓参りをするためであった。彼とは前回の世界一周以来の友人で、当時はヤマハとインディアンを扱う小さなバイクショップをやっていた。その後カナダのヤマハトップディーラーに成長したが、バイクの販売だけでなくカナダ国内の青少年の育成に多大な貢献をしてきた人だ。残念なことに2002年1月に88歳で亡くなってしまっていた。私の年齢が28歳も離れていたがバイクを愛する気持ちは変わらず、家族ぐるみの付き合いもしてきた。今回の旅がもう1年早ければ元気な姿に会えたと思うと悔やまれてならない。

’90年6月オーストラリア1周のバイク旅行へ出かけるウォールト・ヒーリーをロサンゼルスの空港で見送った

 初冬のトランスカナダハイウェイをひたすら西へ向かう。カナダへ入ってからは天候も芳しくない。冷たい雨はいつしか雪に変わった。この旅初めての雪である。37年前、この同じ道を同じ時期に逆方向へ進み、やはり冷たい雪に遭ったことが思い出された。

 ハイウェイに沿って大陸横断鉄道、カナディアンパシフィックが走っている。ときおり貨物列車を見たが、それらはディーゼル機関車で、それに比べるとロシアの全線電化は立派だ。

 10月5日、カルガリーのバイクショップ「ウォールトヒーリーヤマハ」を訪ねた。もう10年以上前からウォールトの息子テリーが店の運営をしていた。事前に連絡を入れておいたのでテリーは快く迎えてくれた。彼は父親ウォールトの亡くなる当日のことを思い出しながら、目を赤くして涙をこらえながら話してくれた。朝は元気に家を出てカルガリー市内の会議に出席し、終了後席を立ったときに急に倒れ、そのまま帰らぬ人となったという。

カナダのカルガリーで友人ウォールト・ヒーリーの息子テリー・ヒーリーを訪ねた。父親の店を引き継いでいたが、彼の友達との共同経営となっていた

 亡くなる前年までサイドカーに乗っていた。とにかくバイクに乗ることを愛していた人だ。私がロサンゼルスに住んでいたころは幾度となくサイドカーで訪ねてくれた。年をとって店を息子のテリーに任せてからは、カナダ国内はもちろんアメリカなど、どこへ行くにも奥さんをサイドカーに乗せて出かけていた。海外にも出かけ、メキシコのバハカリフォルニア、遠くはオーストラリアにまで出かけ、バイクを楽しんでいた。カナダ国内では、青少年の健全な育成のためにバイクレースを開催したり、政府認可をとってのメカニックスクール開催等々、社会貢献に積極的に取り組んだ偉大な人物であった。彼が87歳まで乗っていたサイドカーは地元の高等学校に寄贈したうえ、遺産の一部でウォールト・ヒーリー・スカラーシップ(奨学金制度)を作るという。

ウォールト・ヒーリーが’01年まで愛用していたロードスターのサイドカー。地元の高等学校に教材として寄付された

 テリーと一緒にウォールトの墓を訪ね、深々と頭を垂れ、冥福を祈った。そしてテリーは、生前のウォールトが私に渡したかったというWalt Healyと書かれた時計を手渡しながら、「本当に来てくれてありがとう。」と言った。私も心から来てよかったと思った。

初冬のロッキー山脈を越え、灼熱の砂漠を走る

 カルガリーからそのまま西へ進んでカナディアンロッキーを越えるか、それとも南へ下がってアメリカのモンタナ州からスポケン経由でシアトルへ抜けるか、運が悪いと雪で先へ進めなくなるので思案のしどころであった。いずれにせよどこかでロッキー山脈は越えなくてはならない。カナダへ入ってからは、毎日天気予報に注意していた。今朝の予報では、ここ2、3日は幸いなことに寒気が緩むというので、寒気がこないうちに西へ進んでロッキー山脈を越えることにした。バンフ国立公園へ入ると周囲を真っ白に雪をかぶったロッキーの山々に囲まれた。レイクルイズを通って、まだ明るいうちにゴールデンで宿を探して一泊した。暗くなってしまうと気温が下がり路面が凍るからだ。曲がりくねった山道での凍った路面は危険極まりない。

 翌日、バンクーバーへ抜けるまでにグレイシャー国立公園があり、これがもう1ヵ所の峠だ。ゴールデンからしばらくコロンビア川に沿って走った後、峠の登りになった。雲が出てきたと思ったらすぐに雪である。幸い路面に落ちると解けてくれるが、それでも滑りやすい。観光シーズンをとっくに過ぎており、交通量は少ない。滑って転ばないように細心の注意をして進んだ。そして、その日10月7日に、カナディアンロッキーを無事に越えてバンクーバー経由でアメリカ、ワシントン州のベリンハムに着いた。

カルガリーからカナディアンロッキーを越えた。バンフ国立公園とグレイシャー国立公園、2カ所の高地を越えたが、周囲の山々はすでに雪をかぶっていた
カナディアンロッキーを越えてバンクーバーまで約100kmの地点。北米初めての有料道路、料金表を見ると、バイクの通行料金はクルマの半額、日本も見習うべきだ

 シアトルからポートランドへ入ると日中の気温は30度を超える暑さに戻った。そのまま海岸線を走ればサンフランシスコを通ってロサンゼルスであるが、私はレディングからチコを通ってネバダ州へ入り、ラスベガスへ向かうことにした。ネバダ州とカリフォルニア州にまたがる交通量の少ない延々と続く砂漠の1本道はロイヤルスターのような大型クルーザーで走ると、ゆったりとしたアメリカの醍醐味を味わうことができ、こたえられない。シベリアの湿原と延々と続くタイガに囲まれた道を走るのとは対照的だ。

ネバダ州の砂漠を行く。サクラメントからネバダ州リノを経由してラスベガスへ。10月とはいえ日中の気温は30℃を超えていた

旅の終わり

 ラスベガスにある最新豪華ホテル「ベネチア」のグッゲンハイム・ヘルミテージ・ミュージアムで開催されている「アートオブモーターサイクル」をぜひ見たかったので立ち寄った。バイクの歴史130年間に世界で作られたバイクの中から、芸術に値するものを100モデル厳選し、世界中から実車を集めて、芸術的に飾ったものだ。3年ほど前にニューヨークで第1回が開催され、その後ヨーロッパをまわってラスベガスへ来たのである。バイクを芸術の素材として取り上げるだけでも画期的なことだ。展示品の1台1台が喉から手が出るほど所有したい、乗ってみたいバイクであった。2003年の1月中旬にこのイベントは終了し、展示車は持ち主へ送り返される。これだけの貴重なバイクを集めるのは大変なことで、これから先、2度とできるかどうかわからないほど価値のあるイベントであった。

 アートオブモーターサイクルを堪能し、いよいよ今回の旅の海外最終地点であるロサンゼルスへ向かった。ラスベガスからロサンゼルスまでは走り慣れた大好きな道だ。砂漠以外に何もない道を走ってゴーストタウンのキャリコ、バーストーを過ぎて西へ進み、10月15日ロサンゼルスに無事到着した。

 ロサンゼルスではYMUS(ヤマハモーターUSA)で大歓迎を受けた。なつかしい顔ぶれに会い、ホッとして今回の旅は終わった。まる4ヵ月かけ、走った距離は2万9000kmを越えた。いろいろな人にも会えた。たくさんの博物館も見ることができた。とくにロシアでは毎日が新しい発見だったから、この4ヵ月は1年以上のような感じがした。人生の区切りとして思い切って日本を出発して良かった。

ロサンゼルス郊外のサイプレス市にあるヤマハモーターUSAで昔の同僚の出迎えを受けた。なつかしいなつかしい、顔、顔だ

 その後、ロサンゼルスからロイヤルスターを貨物船に積み込み、愛知県の豊橋港で11月18日に陸揚げされた。私は一足先に空路にて家族の待つ浜松へ戻った。

2輪は地球を救う

 37年前にYDS-Ⅲで、東回りに世界一周をしたときと比べて最も変わったことは何か? との質問をよく受ける。車がものすごく増えたこと、道路が驚くほど良くなったことは確かであるが、何よりも変わったことは地球が汚れたことと答えることにしている。人が生活しているところは道といわず、海といわず、ゴミだらけである。大都市はスモッグに覆われ、大都市に入るときは灰色のスモッグの中へ突入して行く感じである。風が吹いてもスモッグは拡散するが消えるわけではない。酸素も無限にあるわけではない。将来、地球上で人類が生活するうえで酸素ボンベが必要になるかと思うほどの危機感を持った。

 そんななかにあって、自転車、バイクなどの2輪の役割は大きい。ヨーロッパの国を挙げての2輪普及への取り組みは積極的である。自転車、モペットが走りやすいように、道には専用ラインが設けられているし、バイクを見る人々の目も温かい。ロイヤルスターで渋滞した町中を走っているとき、信号待ちで道を譲ってくれる車が多かった。

 現在、世界で走っている乗用車の約70%は人間がひとりしか乗っていない。このうちの15%の人が自転車やバイクなどの2輪に乗り替えれば、世界の交通渋滞は解消し大気汚染改善に貢献できるといわれている。世界の人口が急激に増加している状況下、誰もが豊かになりたいと思うのは当然であるが、それでは世界の交通渋滞、環境汚染、大気汚染はますます深刻になってしまう。省エネ、省資源で機動性に優れている2輪を積極的に活用することが地球を救うことにつながるのではないだろうか。

(了)

ヤマハコミュニケーションプラザへ無事ゴール。11月18日ロイヤルスターを豊橋港で陸揚げ、通関後、陸路で磐田市まで走ってヤマハ発動機で大勢の人々の歓迎を受けて旅の終止符は打たれた
出典

別冊モーターサイクリスト 2004年1月号~5月号
株式会社八重洲出版

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